NO-MA ARCHIVE(ノマ アーカイヴ)

刊行物
2024.2.29
ゆるやかなつながりが守るもの ~沖島の人との関わりから考える~ テキスト版

ゆるやかなつながりが守るもの カバーガイド

このブックレットを手に取ってくれた「あなた」へ

「沖島」は日本で唯一、淡水湖に浮かぶ有人島。時が止まったような空気に包まれ、すれ違う島の人たちは穏やかな笑顔であいさつしてくれます。滋賀県近江八幡市の堀切港から船で約10分、気楽に訪れることができる離島です。
このブックレットを手に取った人は、こう思うかもしれません。
「これは、何?ガイドブック?研究書?」
ガイドブックを期待した人は、観光スポットがよくわからなくて、拍子抜けするかも。でも、じっくり読むと、沖島に暮らす人の顔が浮かんでくるような、沖島の魅力が詰め込まれています。
2023年、沖島と同じ近江八幡市にある美術館「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」では、沖島に関わる人たちの文化や生活、活動や島への想いについてヒアリングしました。このブックレットはそれを記録としてまとめ、発信することで地域社会に還元することを目指しています※。
多くの人を惹き付ける沖島ですが、800人を超えていた人口は現在230人にまで減り、超高齢化が進んでいます。「漁師の後継者問題」「空き家問題」など課題も多く抱えています。一方、沖島の未来に光を照らす変化も生まれています。若者が移住してきたり、新しい漁師の担い手が誕生したり、観光客も増えました。「大学生」を触媒とした「他出子」の変化は、このブックレットを読んで感じていただきたいポイントの1つです。
なぜか、たくさんの人の「気になる」が集まってくる不思議な島。「気になる」が、ゆるやかな関係を生み、沖島を優しく包み込んでいます。このブックレットを読んで、あなたが「沖島、気になるな」と思ったら、その時から、あなたも沖島を取り巻く関係者の一人です。

「沖島のゆるやかなつながりが守るもの」 ヒアリングチーム一同

※令和5年度文化庁Innovate MUSEUM事業「ケアしあうミュージアム」の一環で実施しました。実施にあたり、社会福祉法人グロー法人事務局地域共生部と成安造形大学助教の田口真太郎さん、café&gallery汀みずの精せいオーナーの奥村ひとみさんを中心に調査チームを結成して、インタビュー、分析、執筆を行い、ブックレットとして編集しました。

沖島の暮らしと文化を象徴するキーワード10

インタビューのなかでも頻繁に登場する10のキーワードについてまとめて解説。これを知っておけばあなたも沖島ツウ!

1 沖島の左義長祭り
おきしまのさぎちょうまつり
江戸時代末期に始まった伝統行事。毎年1月初旬に、しめ縄などのお正月飾りを燃やす火祭り行事に加えて、成人の仲間入りすることを祝う「元服」の行事も兼ねて行われるのが沖島の特徴。今では、五穀豊穣、大漁、無病息災、勉学祈願など島民挙げての祭りとなっている。

2 宮世話
みやせわ
厄年の男性(40歳)10名が、厄払いの意味も込めて1年間神社に奉仕すること。

3 他出者&他出子
たしゅつしゃ&たしゅつし
沖島を離れて暮らす沖島出身者のなかで、親世代が沖島に暮らしていなければ他出者、今でも沖島に親世代が暮らす家があれば他出子という。

4 沖島町離島振興推進協議会
おきしままちりとうしんこう
すいしんきょうぎかい
通称、協議会。2013年、離島振興法に基づき発足(淡水湖の有人島としては唯一)。自治会、沖島漁業協同組合、湖島婦貴の会、女性会、老人クラブなどの団体と県や市で構成され、沖島の振興に努める。

5 定期船(通船)
ていきせん(つうせん)
1999年、沖島港と対岸の堀切港を結ぶ定期連絡船として就航。それまで、自家用船のみだった交通インフラが劇的に改善された。所要時間は、片道約10分。現在は1日10往復ほど運航され、観光客の増加にも大きく寄与している。

6 沖島漁業協同組合
おきしまぎょぎょうきょうどうくみあい
前身は、1903(明治36)年に組織された沖島水産会。現在は、正組合員70名に加えて、後継者育成事業として長期研修を終えた30代の準組合員52名が加わり、深刻な後継者不足問題と向き合っている。主にアユやワカサギ、スジエビ漁などを営み、漁獲量は琵琶湖漁業全体の約4割。

7 みんな親戚
みんなしんせき
1159年、保元・平治の乱で敗れた源氏の武士(小川、北、茶谷、中村、西居、久田、南の7姓)が沖島に漂着して住み着いた。今もこの姓の家が多く、実際に祖先をたどると親戚関係にある家が多いという。

8 地域おこし協力隊
ちいきおこしきょうりょくたい
都市部から全国の過疎地域などへの移住を促進する総務省の事業。地域の魅力発信など、地域おこし活動の支援を行いながら、活動者の定住・定着を図る取り組み。隊員は各自治体(沖島の場合は近江八幡市)から委託を受けて、任期は最大で3年。

9 琵琶湖総合開発事業
びわこそうごうかいはつじぎょう
琵琶湖の自然環境保全を目的に、地域開発と水資源開発を一体的に進めた日本初の事業。治水や利水対策として湖岸堤を設けたり川幅を広げたりした結果、琵琶湖の環境に悪影響を与えたといわれる。20年をかけ、1991年に全工事が完了。

10 アイランダー

全国の離島関係者が年に一度東京に集い、観光PRや特産品販売を行うイベント。国土交通省などが主催し、関係者同士で島の課題を共有したり、移住希望者の相談窓口を設けたりしている。

沖島の近代史

1805(文化2)年 家数43、人口194人。田畑が必要となり、 対岸の小田ヶ浜、宮ヶ浜を開墾。
1893(明治26)年 島村立沖島尋常小学校、開校。
1903(明治36)年 沖島水産会が沖島漁業組合として組織される。
1915(大正4)年 石材販売組合が組織される。 (1923年、石材価格が最高になる)
1947(昭和22)年 関西配電により、水中ケーブルで送電が開始される。 島村立沖島中学校が併設され、 島村立沖島小学校と改称。
1951(昭和26)年 島村を廃し、蒲生郡近江八幡町に編入。
1955(昭和30)年 沖島153世帯、人口808人。以降は減少となる。
1970(昭和45)年 石材販売組合、解散。
1972(昭和47)年 琵琶湖総合開発計画、正式決定。
1973(昭和48)年 沖島新漁港着工。琵琶湖総合開発により、 近代的な漁港の造成に。
1991(平成3)年 琵琶湖総合開発事業、すべての工事が完了。
1992(平成4)年 沖島小学校創立100周年記念式典。 老人憩いの家、開所。
1999(平成11)年 沖島町営定期船運航開始(4月1日)。
2001(平成13)年 「沖島21世紀夢プラン」始動、実行委員会開催。
2012(平成24)年 沖島が離島振興対策実施地域に追加指定され、翌年、沖島町離島振興推進協議会を立ち上げる。
2018(平成30)年 沖島初の地域おこし協力隊(山角美佳子さん)着任。
2019(平成31)年 「沖島民泊湖心koko」オープン。
2022(令和4)年 沖島の人口が221人となる(男性99人、女性122人)。
(参考)西居正吉氏制作年表より

「またもんてきます」 小さな約束を果たし続ける“よそ者”の祈り 久保 瑞季

―――2024年1月8日―沖島の左義長*を眺めている。
大学1回生から沖島に関わりだして、何度目の左義長だろうか。初めて見た時と変わらず、火は勢い良く燃え盛り、天に向かって大きな火柱を立てている。年始めの祝い事である左義長は、15歳の青年にとっては元服の儀式、島のオナゴシ(女衆)にとっては裁縫の上達祈願、漁師にとっては今年の豊漁祈願とその方角を占う行事などなど、島民にとって多くの意味をもって行われる。ただ、どのような立場にしろ、その年の無事を祈ることはいつの時代も変わらないのかもしれない。もし、私が関わり始めた時から変わった点があるとしたら、火を囲む人たちの多様さだと思う。

―――8年前の2016年に、滋賀県立大学の上田洋平先生に連れられ、初めて左義長に参加した。この時は、左義長を彩る紙垂を切る「紙切り」を手伝った。これが私にとって初めてのボランティア経験だった。当時、この準備作業を担っていたのは、島の自治会の役員だけで、宮世話*もいなかったように思う。役員のおっちゃんたちは、孫と子どもの間くらいの年齢の私に親切に紙の切り方を教えてくれた。約6000枚の赤、紺、黄、緑、白の色とりどりの紙を木枠に沿って切っていく。とても根気のいる作業だったが「来てくれたから、はよ終わったわー」と手伝いに来たことを感謝された。もちろん、手伝い始めてまもない私が力になるはずもなく、いつもと違う若い人がいるから、おっちゃんの「作業がはかどった」というのが事実だった。この時「若者がいると作業も進むし、みんな笑顔やなあ」と初めて若者がそこに「いる」ことで生まれる変化を感じた。
 そこからの私と島の関わりは、上田先生の授業から始まり、祭りのお手伝いなどのボランティアを行う学生団体「座・沖島」の立ち上げ、卒業論文での他出者*の調査、社会人になってからは毎月第3日曜日、浜大津駅前で開催されている「浜大津こだわり朝市」に出店する沖島漁師の会の手伝いや湖魚関連コラボイベント等の実施など、約9年にわたる。2017〜2019年の2年間は実際に移住し、島から大学へ通学していた。沖島に移住していた頃、特に離島振興推進協議会(以降、協議会)の方々、隣に住む「島父・島母」こと漁師のご夫妻(北村重俊さん、すえみさん)にあらゆる面で支えられていた。お金もなく自炊が苦手な私を毎日のように食卓に招いてくれたり、クーラーがない部屋だったので夏の暑い晩には泊めてくれたりした。このように学生である私を温かく受け入れてくださった方がいる一方で、島民の属性によっては、関係を築けていなかった方も多かったと思う。島の窓口と遠い方とは頻繁には話すことができなかったのだ。
 それを裏付ける訳ではないが、移住中の印象的な出来事の一つとして、2018年7月8日に開催された「沖島の未来を考える会~七夕短冊に願いを込めて~」というイベントがある。協議会が主催で開催し、島内外から集まった人たちが、沖島の未来や願いを七夕の短冊にしたため、それを基に感想を言い合うというものだ。この時、一つの短冊に「島はよそ者に慣れてきた」と書かれていたことを思い出す。「受け入れる」ではなく「慣れてきた」という言葉に、祭りを手伝っていた学生等〝よそ者〟による島民の変化をうれしく思う気持ちと、まだまだこれからだという悔しさが同時に湧き起こった。

―――だが、2024年の今はどうだろう。左義長では「紙切り」よりも大変な竹や笹を切る作業を、地域おこし協力隊*などの移住者や他出者、学生も手伝ったと聞いている。高齢化が進む自治会の役員でこなしていた作業をいまやよそ者も共に担うようになった。初めて参加した2016年とは違い、左義長の火柱を囲んでいた面々は、移住者、他出者、学生、観光客などなど、島民以外のよそ者も多く存在している。この光景は数年前では考えられなかったと思う。沖島はよそ者に「慣れてきた」から「当たり前」になりつつあるかもしれない。それは島民に認めてもらうために、溶け込もうとする移住者の「頑張り(努力と私が言うにはおこがましいので)」はもちろん、コロナ禍を経ても関わり続ける学生、故郷を想って多忙でも帰省してお手伝いをする他出者など、島を支え続けるよそ者の存在が大きいと思う。
 しかし、それだけではない。よそ者も島民の受け入れがないと関わることは難しい。冒頭の「紙切り」での経験のように、よそ者に触発された島民自身もゆっくりと変化し、受け入れるようになってきているのではと思う。そして、その受け入れがよそ者にとって、地域の大きな魅力となり、さらに新たなよそ者を惹き付ける。受け入れて、惹き付けられ、島民も少しずつ変化して受け入れ、さらにそれがまた違うよそ者を呼んでくる。その好循環が少しずつ少しずつ広がり始め、当たり前のようになってきたのではないか。

―――さて、話は戻って今年の左義長を眺めている時、島の知恵袋・西居正吉さんが私に話しかけてくれた。「あの焼いた竹をな、軒下に入れたら蛇がこうへんくなるねん。ほら竹は細長いやろ。お前(蛇)もこうなるぞ(焼かれる)ってことや」。左義長には何度も参加しているが初耳の話だった。なるほど、焼かれた竹から蛇を連想するのか。きっとこれを最初に願った人は、相当蛇に悩まされていたのかもしれない…。そう思うと左義長も正月に行われる節目の行事だったものが、さまざまな立場の方が関わるようになり、元服の儀式や裁縫の上達祈願などのたくさんの意味を持つ祭りになったのか。ならば、これからよそ者は左義長にどんな意味を見出して、どんなことを願うのだろう。そうして、また左義長は島民やよそ者にとって、なくてはならない祭りになっていくのだろう。
 地域も同じかもしれない。たくさんの関係する者が、その地域に新たな意味や価値を見出し、多くの者にとってなくてはならない地域になっていく。人が人を呼び、関わり合い、その人たちが新たな意味を見出し、その地域はかけがえのないものになる。そうやってずっと地域というものは続いていくのかもしれない。そんな輪が生まれ続けることこそが鍵になっていくのだろう。

―――最後に、最近惜しまれることがあった。2023年の年末に奥村良平さんが亡くなられたのだ。移住していた時は、自宅に招いて奥村さん一家とごはんをご一緒したり、学業や島の活動のことなどたくさん相談に乗ってくださった。社会人になったばかりで不安だった時には「パワーや!」と喝を入れていただいたりと、いつも温かく励ましていただいた。私にとって本当に貴重な存在だった。島のお世話になった人が一人また一人と旅立っていかれる。いったい私に何ができるだろうか。こういった時いつも沖島の母こと、北村すえみさんの言葉を思い出す。
「もらった人に恩は返せない。だから違う人に恩送りをするんやで」
 恩送りは何からしたらいいだろう。まずは「またもんてこい(もどってこい)」という島民の声かけに対して「またもんてきます」というよそ者の小さな約束を果たすことから始まるのではないか。だから私はこれからも島にもんてき続ける。私はただこの島に暮らす人とその人たちの望む暮らしが無事でいてほしいだけ。そんな祈りをのせて、左義長の火柱とそれを囲む人たちを眺めていた。

沖島つながりマップ 〜過去の成果から未来の展望へ〜

沖島の持つ「つながりの豊かさ」とは?

沖島でのインタビューは、令和5年度 文化庁 Innovate MUSEUM事業「ケアしあうミュージアム」の一環で実施されました。これはボーダレス・アートミュージアムNO‐MAの周辺地域を対象に、インタビュー活動を通じて「つながり」の価値を再考するプロジェクトです。前年は近江八幡市の伝統的な「地蔵盆」に焦点を当てました。第2弾となる今回の沖島インタビューでは、そのユニークな地理的特徴と超高齢化が進む社会的課題を通して、島の魅力と多様なつながりを探りました。本紙とは別冊で6つのインタビューをそれぞれにまとめた6巻からなるインタビュー集を制作しています。ぜひ参照してご覧ください。

沖島の絆が紡ぐ、島の未来像 田口 真太郎 成安造形大学 未来社会デザイン共創機構 研究員(助教)

離島振興事業が紡いできた新しい資本
 インタビューを通じて、①ソーシャルキャピタル※の豊かさと、②集落の持続可能性に関する課題が浮かび上がりました。この2つの観点からインタビュー内容を振り返り、沖島の地域振興活動を「起点」「活動」「成果」「変化」の4つのフェーズで分析し、インタビューから浮かび上がる沖島のつながりを読み解く分析図を「沖島つながりマップ」として整理しました。この分析は、外部との関係を通じた振興とソーシャルキャピタル向上を示し、現在の活動が「未来に継承したい島の文化的景観」に結び付いていることを強調しています。
沖島振興マップの概要とフィードバック
 2024年2月4日の「ケアしあうミュージアムWEBフォーラム」で、本事業に協力いただいた関係者に沖島つながりマップを共有し、フィードバックをいただきました。その結果、地域振興のためのつながりの価値を再確認し、その影響力を明らかにしました。特に、コミュニティ形成の活動は成果が見えにくいものの、沖島のソーシャルキャピタルを育て、多様な振興事業を支えています。
 沖島は、少子高齢化と人口減少が進む厳しい状況にあります。しかし、この島は漁業の衰退などの困難に直面しつつも、20年前から外部との交通網を整備し、観光客や大学生といった若者との交流を積極的に受け入れることで、地域の変化と振興の基盤を築き上げてきました。これにより、離島振興対策実施地域として認定を受け、本格的な振興事業が開始されました。離島振興事業は、女性たちが中心となり、郷土料理を通じた地域活性化事業や、沖島の魅力発信事業を成功させました。これらの活動は、地域外への発信だけでなく、地域内課題の解決にも大きく貢献しています。
 さらに、滋賀県立大学の学生や地域おこし協力隊の参加が、沖島の文化や生活に新しい風を吹き込み、他出子が地域活動に関わるきっかけとなり、地域コミュニティの活性化につながっています。これらの活動を通じて、沖島では多様な人々が集い、新たなソーシャルキャピタルが形成され、離島振興の新たな動きが生まれています。
 今回のインタビューから得られた考察は、地域振興における「つながり」の重要性を再確認し、沖島のような集落が直面する課題にも、前向きな見通しを提案します。つながりを育てる活動は時間と労力を要するものですが、その価値は地域の未来を照らす光となります。

※ソーシャルキャピタル…社会関係資本。社会や地域において、他の人に対して抱く「信頼」や、持ちつ持たれつなどの言葉で表現される「互酬性の規範」、そして人々の間の絆である「ネットワーク」を指す言葉。市場では評価されにくい「集団としての協調性」を生み出す。

《御礼》ブックレットをまとめるにあたり、多くの人にご協力いただきました。 あらためまして、御礼申し上げます。

インタビューに登場いただいた皆さん(順不同・敬称略)
奥村良平、奥村あいこ、本多有美子、小川文子、富田雅美、久田清、小川泰治、塚本千翔、川瀬明日望、橋本花菜子、森田幸光、西居英治、櫻木みわ、上田洋平、久保瑞季、奥村ひとみ、宮崎瑛圭

ケアしあうミュージアムWEBフォーラム「沖島」公開中
この事業を総括するフォーラムを沖島で開催し、その様子をYouTubeにて配信しています。ぜひご覧ください。
https://youtu.be/ju8V3Biwzl4
〈登壇者〉 田口真太郎、奥村繁、上田洋平、奥村ひとみ、富田雅美、土井忠史、東有希
〈主催〉 ケアしあうミュージアム事業実行委員会 (構成団体は以下)
ボーダレス・アートミュージアムNO-MA(社会福祉法人グロー[GLOW])、国立民族学博物館人類基礎理論研究部、しが外国籍住民支援ネットワーク、社会福祉法人近江八幡市社会福祉協議会(地域福祉課)、一般社団法人近江八幡観光物産協会、滋賀県(文化スポーツ部文化芸術振興課/美の魅力発信推進室)、滋賀県(健康医療福祉部障害福祉課)、近江八幡市(総合政策部文化振興課)
〈助成〉 文化庁 令和5年度 Innovate MUSEUM事業

ゆるやかなつながりが守るもの
~沖島と人との関わりから考える~
2024年2月29日発行

〈制作・発行〉 ケアしあうミュージアム事業実行委員会
〈発行責任者〉 牛谷 正人(ケアしあうミュージアム事業実行委員会 実行委員長)
〈執筆〉 田口真太郎(成安造形大学)、事務局
〈写真〉 茶谷力、上田洋平、奥村ひとみ、久保瑞季、離島振興推進協議会、    富田雅美、川瀬明日望、橋本花菜子、宮崎瑛圭、竹岡寛文、事務局
〈事務局〉 西野裕貴、横井悠、赤澤誉四郎
〈デザイン〉 株式会社タケコマイ 竹岡寛文
〈事務局〉 社会福祉法人グロー(GLOW)法人事務局地域共生部
〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦4837‐2
TEL 0748-46‐8100 FAX 0748‐46‐8228

「沖島と人との関わりから考える」インタビュー集 第一巻 「ここが一番ええ」と感じる、沖島の幸せな暮らし 奥村 良平さん 奥村 あいこさん

最初にインタビューをお願いしたのが、奥村良平さん、あいこさんご夫妻でした。第六巻に登場する奥村ひとみさんのご両親でもあります。良平さんは、ひとみさんが経営するカフェ&ギャラリー汀みずの精せいの店の前に置かれたイスに座り、琵琶湖を見つめながら、行き交う人と会話されていました。あいこさんは、ビワマスを豪快にさばいて、おいしい煮付けを食べさせてくれました。お二人は沖島で生まれ、暮らし、結婚して、月日を重ねてきました。そして、良平さんは、2023年11月22日、享年75歳でお亡くなりになりました。良平さんが見つめ続けた沖島の変わりゆく姿が、言葉として残された貴重なインタビューとなりました。


通船の誕生がもたらした変化

―――良平さんが自治会長をされていた時に尽力されて、沖島と対岸の堀切港を結ぶ定期船*(通称:通船)の運行が始まりました。島にとってどのような変化がありましたか?
良平 何年やったかな?
あいこ 1999年?お父さん(良平さん)が自治会長しはったさかいに、市役所の秘書さんと海運局やらなんやらに手続き行って「やっと定期船ができた」ってみんな喜んではったわ。もっと早く通船ができてたら、若い人が島から出ていくこともなかったやろうにね。

―――通船ができて、観光客は増えましたか?
あいこ 最近は外国の人も多いし、今と昔とで、だいぶ変わったでな。それまでは観光客は来なかった。釣りをする人が素泊まりでたくさん来はって、お父さんが船で送迎してはった。貸ボートは盛況やったな。

―――どんな魚を釣るんですか?
あいこ ブラックバスやブルーギル、みんな外来魚で、たくさん釣れました。釣り客は、みんなここで寝泊まりしてたんやけど、トイレがくみ取り式で、マンホールに流すだけやから臭くて。釣り客がたくさん来はると、私は嫌やったな。通船ができる前は、島外の人と接触することはほとんどなかったしな。通船ができた時は、島に知らん人が入ってきて、用心も悪くなるやろ思って、今は家に鍵をかけて寝るようになりました。それまでは、夏は扉開けて寝てたから。
良平 そんなに心配すること、ないんちゃうか。
あいこ そうやな。やっぱり、島で悪いことしても、船に乗って帰らんといかんから、できひんわな。おかしな人がいたら、誰かが気が付くし。でも、いっぱいいた猫がいつの間にかいなくなったんよ。みんな「おかしいな、おかしいな」って。たぶん、誰かが連れて帰ったんやと思うわ。

―――通船ができてから、大学生が沖島に来ることが増えたと思います。
あいこ 滋賀県立大学の上田洋平先生(第六巻に登場)が、よう連れて来はったな。にぎやかになるし、勉強になるんやったらいいと思う。受け入れるこっちも、初めてのことが多かったけど。一つの家に2〜3人の学生を泊めてましたわ。今も年賀状やらくれはる。受け入れる家と、受け入れへん家がありましたけど。
良平 民泊の前身やな。2〜3年ぐらいやってたんかな。


家を一歩出て出会う人は「みんな親戚*」

―――通船ができる前はどうしていたんですか?
あいこ 小学校は島にあるけど、中学に上がってからは、船に乗って対岸の八幡中学まで通ってました。長命寺まで船があったんやけど、乗り物酔いして、勉強どころじゃなかったわ。長命寺からはバスに揺られて、学校に着くまで気持ち悪くて。年に1回、カマド払いに来てくれる獅子舞も長命寺港からやったな。悪天候で帰れなくなって一晩泊ってご馳走よばれて、皆さん喜んで帰らはった年もあったな。
良平 1年に1回のお払いは、人間が生活をしていく上で、基本的なことやからな。1軒、1軒。それをおろそかにできるわけがない。
あいこ 獅子舞を見に行く時、小さい棒にピンクとかミドリとか糸切りの筋がついた小さい飴玉を持って、あれはうれしかったな。今でも、サト豆とかきもちは作ってはりますわ。



―――サト豆とは?
あいこ サト豆は、あられを細う切って、乾燥させて、煎って水飴で固めたもの。かきもちは、塩だけで作ることもあるし、家によっては昆布とかエビを入れたりしはる。私は昆布と塩であっさりで、それがおいしいでね。沖島では、結婚式とか、お葬式とか、昔からみんなで寝ずに料理を作って、10品以上用意したりしていたな。
良平 みんなが助け合う慣習になっとったで。せざるを得んし、して当然やな。
あいこ 玄関開けて一歩出て、「おはよう」言うたら、もう親戚やからな。
良平 おかずやら、なんやら、交換したりしてな。
あいこ 嫁入りは、結婚式前から用意しますやん。1週間ほどかかってましたわ。漁協の2階を借りて、1階で賄いして、大変やけどみんな親戚みたいなもんやでね。

肌で知る沖島に刻まれた伝統と歴史

―――お二人の出会いは?
あいこ 島で出会って、小学校も中学校も一緒やし。だいたい性格もわかってますやん。年齢も1つしか違わへんしな。私らの時は、車もなかったし、都会に遊びに行くということもありません。親のところに「(嫁に)もらいに来てはるけど、どうする?」とか、そんな感じで上の人が決めはった。獅子舞とか節分の時に、サト豆作りながら、縁を固めるといった感じで、親同士が顔合わせて「どうする?」って決めはったんです。

―――結婚式はどんな感じでしたか?
あいこ 今は結婚式場でしはるけど、私らの頃は花嫁は村の着物を借りました。お嫁さんのところに提灯持って迎えが来るんやけど、近所からみんな見にきてました。そこから、お婿さんの家に移動して、仏壇の前でお参りして、ご馳走をよばれた。
良平 そんな結婚式も、わしらの頃で終わりやろ。新婚旅行はわしらが最初やったけどな。
あいこ 同じような時期に結婚しはった2組ぐらいが白浜とか近場に行って、私らは九州やったな。それまでは、新婚旅行なんて、なかった。お父さんは、別の時に一度ハワイに行ったな。
良平 バブルでな。
あいこ 男性ばっかりで、いろんなところに行ってはった。バブルの時は、景気が良かったし。まだ、魚も寄った(獲れた)しな。

―――良平さんは漁師をされていたんですか?
あいこ 結婚して子どもが生まれた頃は、漁師もしていました。燃料を大津の方に持って行く仕事がよう出たので、漁師やめて、会社にして。お父さんは一代で会社を築きはったけど、今は引退してます。

―――皆さん畑を持っていて、ある程度自給自足ですか?
あいこ そうそう、野菜やらは、不自由しいひんな。お魚も。
良平 生活の基盤はやっぱり米と漁師ですやん。魚以外の生活基盤を、自分たちで作らなあかんなって。
あいこ お米は、段々畑みたいなのがありましたやろ。沖島でも、そこで少しだけ作ってました。琵琶湖を渡った堀切の方ではもちろんお米を作っていたので、私らも船で通ってました。休暇村のあたりは、沖島町ですから、向こうに行って鋤で田んぼ掘って、若い頃は耕すのがしんどくて嫌やったな。

―――今では、定期的に買い出しに行ったりしますか?
あいこ 冷凍が効くんでね。八幡行った時に肉とか足らんもんは買ってきます。めったに出えへんけどな。やっぱり、八幡に行ったらお金いりますやん。ここにいると、野菜やら魚やら、生活費はかからないんで。船も売り払ってしまったし。


―――昔の資料を読むと、沖島の住民をすべて移転するみたいな計画があったんですね。
あいこ 対岸の堀切にな。あれは、反対した。やっぱし、ここで生まれ育ったから、都会や町には慣れへんでな。ここは空気もいいし、のんびりしてる。私は、八幡に出たら「はよう帰りたい、帰りたい」って思ってます。ここが一番ええ。
良平 テレビでほかのとこのニュース見ていても、祭りの話題とかがすごく減ってる。関心がなくなってるのか、地域の交流があらへんのや。
あいこ 沖島では、今でも、いろんな風習を大事にしています。今でこそ、島から子どもがいなくなって、ガランとしてますけど、祭りとか行事になったら、いろんなところから帰ってきはります。あんなにたくさん、どこの子やろって思うわ(笑)。

―――お二人は何年生まれ?
あいこ 私は、昭和25年、寅年で、お父さんは24年で丑。誕生日が7月30日。お父さん、今日、誕生日やね。74?
良平 75や。
あいこ まあ、小さい時はいろいろありましたけど、ええ、思い出やな。


〈写真キャプション〉
定期船(通船) 写真提供:茶谷力
滋賀県立大学の学生プロジェクト「座・沖島」プロジェクト
島の北側にある「千円畑」
奥村良平さん・あいこさんご夫婦 虹のかかる琵琶湖を背景に
たくさんの船が係留される沖島港

奥村良平さんのご冥福をお祈りいたします

〈インタビュー実施日・場所〉
2023月7月30日(水) カフェ&ギャラリー汀の精

「沖島と人との関わりから考える」インタビュー集 第二巻 沖島に嫁いだ三人娘に託された、沖島の地域振興 本多 有美子さん 小川 文子さん 富田 雅美さん

さまざまな団体によって構成されている沖島町離島振興推進協議会*(以下、協議会)ですが、活動の中心となっているのは、インタビューに登場していただいた本多さん、小川さん、富田さんの3人です。島の8割の人が漁業に従事しているという沖島は、男性中心の社会。しかし、時代の流れとともに、島外の人と相談して物事を進めるとなった時、誰も経験したことのない役割を任されたのは、島外から嫁いできた3人の女性でした。沖島のために奮闘した、11年を振り返ります。


何をしたらいいかわからへん!


―――協議会が誕生してから、沖島の変化に拍車がかかったと感じます。誕生から 10年以上が経ちますが、どのような活動をされてきたのでしょう?
本多 協議会が立ち上がって、5年経った時に「軌跡~沖島離島振興の5年間~」という冊子を作ってまとめました。今、11年目になるけど、この6年でもずいぶん変化があったな。
富田 発足当初は、会議をしてもなかなかまとまらなかった。
小川 当時、沖島は男社会で、会議の出席者も男性ばかり。顔合わせをして「あとは市役所の担当者がやってくれはるやろ」みたいな感じやったんやと思います。
富田 男の人は、漁師一本でしてきはった人が多いから難しかったと思います。
本多 漁師も忙しいしな。市役所の人が苦肉の策として「女性を入れよう」って提案されたんやと思います。
小川 「何か特産品を開発していかな、あかん」って話になって。
富田 それで「弁当や」って。
小川 県の人が沖島の食材をたくさん盛り込んだお弁当を提案してくれはったんやけど、男の人は誰も動かない。「あんたらでやったらええがな」って(苦笑)。ほっといたら、もう沖島のことで行政が動いてくれることはなくなるんやないかという危機感があったので「女の人で動かなあかん」となった。そういう時に頼りになるのは、おばちゃんたち。私もおばちゃんやけど(笑)。
本多 私もおばちゃん(笑)。まあ、10年前はもう少し若かったけど。
小川 「沖島のこの料理がおいしいから、これを入れよう」とか「こういう料理法があるよね」とか、勉強会を開いて、ホテルニューオウミの料理長さんに講師をやってもらいました。「もんてくって沖島めし」という名前で、お弁当箱に、12~13品、琵琶湖の魚や、沖島で採れた野菜をぎゅっと詰め込んで。
富田 最初の頃はけっこう売れたんですよ。サツマイモをご飯に混ぜたのとか、好評で。
本多 「沖島めし」の活動は、今は特に動いてないな。
小川 食材の値段も上がって、最初の金額(1200円)では販売できなくなってしまったから。沖島で採れた野菜や湖魚を詰め合わせた「もんてくーる」の販売は、沖島ファンクラブ「もんて」の活動の一つ。箱のデザインも「かわいい」って大好評やった。会員証としてオリジナルてぬぐい「もんてぬぐい」も作りました。
本多 この頃が、一番活発に動いていて、いろんなことが同時進行やったと思うわ。
富田 翌年あたりから、沖島遊覧船の運行も始まったしな。沖島ファンクラブ「もんて」、沖島めし「もんてくって」、沖島遊覧船「もんてクルーズ」、この三つが、協議会の活動の三本柱でした。

全国の離島が集う「アイランダー」での出会いや発見


―――協議会のメンバーは何人いるんですか?
本多 ほぼこの3人。
富田 空き家の話になると(奥村)ひとみさん(第六巻に登場)が入るし、内容によって変わるかな…。
本多 分業制やな。自治会長と協議会長が兼任なんですけど、沖島は課題がとても多いので、自治会長としての仕事がすごく多い。私たちに任されてるところもたくさんあります。昔に比べたらだいぶ島の人たちも協力的になりました。

―――みなさんが沖島で暮らすようになった経緯は?
富田 3人とも、1998年に沖島に嫁いできました。時期が重なったのは偶然です。
本多 私は、京都から沖島のお寺に嫁いできました。今は週1回、郵便局にも勤めています。女性会で役員やっていたことがきっかけで、協議会の会議に来いって言われて。
小川 私は近江八幡市内の出身で、今は子どもの通学の都合でそこから沖島に通っているので、二拠点生活です。仕事は沖島コミュニティセンターの職員。離島振興の会議に呼ばれて、事務局として動くようになりました。
本多 私も二拠点生活といえるかも。子どもが高校生になると、通学が大変になるんですよ。
富田 私は大阪から嫁いできました。主人が今も漁師をしていて、私は週3回、沖島にあるデイサービスに勤めています。東京でアイランダー*って全国の離島が集まるイベントがあるんですけど、それに「行きたい!」って手を挙げたことがきっかけで、本格的に協議会に入りました。
小川 アイランダーは、沖島をアピールする場なんです。富田さんが「行きたい!」って言ってくれて。アイランダーをきっかけに、ほかの離島ともつながったし、沖島がこれから何をしていったらいいかを考えるきっかけになりました。
富田 アイランダーには毎年、行っています。離島の祭典なんです。全国から200を超える島の人たちが集まります。コロナ禍ではオンライン開催だったけど、2023年から以前のように人が集まる形で再開しました。
本多 いろんな島の人たちとつながれるだけでなく、地域課題の解決に役立つこともあるんです。どこも似たり寄ったりの課題を抱えているので。今、沖島民泊湖心kokoの管理人をしてはる橋本花菜子さん(第三巻に登場)は、アイランダーで沖島に興味を持ってくれたので、誘いました。
富田 「滋賀県に離島⁉どこ?」って言われるけど(笑)。
本多 「琵琶湖」って言うと、逆に目立つみたいな。
富田 イベント会場で湖魚を売るんです。鮒ずしの関心がすごい。沖島をPRする活動をしていると、いろんな人と出会います。学生さんにも出会うし、それはほんま良かったなって思いますね。


漁師と生活だけではない。何かが存在しつつある

―――この 10年、沖島に学生とか、地域おこし協力隊*とか、若い人がどんどん入ってきていると思いますが、それについてどのように感じていますか?
富田 窓口は、基本的に協議会になっています。いい子ばかりですごくありがたい話です。
本多 島の人たちも若い子としゃべれることがすごく刺激になっている。
富田 祭りを手伝ってくれて、そのあとおっちゃんたちと飲んだり、魚や野菜もらったりして、島の人と仲良くなってる。私たちが受け入れて「なんや、この子」って言われたらかなわんけど、今のところそんなことはないと思う。
小川 滋賀県立大学の学生で、久保瑞季さん(第六巻に登場)が沖島に住んだことで、島の人の学生さんに対する壁がなくなったと思うな。
本多 沖島は基本的に漁業の島で、生活のリズムとか、考え方は一辺倒というか、広がりはないんです。そのなかに、違う考え方の若い人や新しいライフスタイルが入ってくることで、世界が広がったと思います。
富田 壁がなくなってきたかな…。
小川 他出子*の若い子たちが集まって、「同志会」ができたのも良かった。
本多 瑞季ちゃんや滋賀県立大学の上田洋平先生(第六巻に登場)とかが、こつこつ積み重ねてくれたおかげ。実際に祭りとかに関わっている同志会のメンバーは15〜16人ぐらい?そんな動きを見て「僕も、僕も」って人が出てくるはず。島の外で違う仕事をしながら、島に帰ってきて、準組合員っていう形で漁師を始めたりしている。そういう流れを大事に育てていきたいと思っています。

―――島外の人が祭りに参加することに、抵抗はないですか?
富田 それは、ウェルカムやな。お神輿はすごく重たいので、やっぱり若い人に担いでもらわなあかんので。
本多 島に関係ない学生が担ぐんやったら、俺らがやるという感じで、他出子も意識が変わってきてる。学生がつないでくれたところがあったと思います。最近は、祭りになると島がにぎやかになって、良かったなって。今、沖島では漁業が停滞してきているので、どちらかというと島の外に仕事を求めている人が多いんです。親としては、子どもを呼び戻したい気持ちもある。島に関係ない若者が入ることに抵抗があった人もいたと思うんやけど、瑞季ちゃんが突破口になってくれてたな。島から出ていった人たちも、「この先できることがあったら関わりたい」って意思表明してくれたので、いい流れになってきていると思います。

―――夏の花火大会が終了してしまいましたが、2023年は同志会が中心となってお盆に夏祭りを開催する予定でした。台風で中止になってしまったのが、本当に残念でしたね。
本多 いきなり夏祭りを任せられるのはちょっと荷が重いって感じだったので、協議会が間に入って前年から整理していたんです。今年はその子たちが主役でやる流れまで引っ張り上げたんやけど、「何で台風来んねん!」って(笑)。

―――この 10年で、島の中にも変化が生まれているんですね。
富田 やっぱり、外の人との関わりは、柔軟になったと思う。
本多 最近は手話で会話している人の姿をよく見るようになったりもするな。
富田 SNSの影響か知らんけど、若い人が本当に増えた。男同士のグループも多いし、カップルもよく来る。
本多 インスタ映えやな。基本的には、そんなに変わっていないと思うけど、静かな島にたくさんの人が入ってくる状況になったわけで、漁師の仕事と生活だけじゃない何かが存在しつつあるように思います。
小川 観光客には慣れはったな。協議会で活動していることも、認識されてる。例えば、スマートスピーカーを導入したとか、イノシシ対策の罠を仕掛けてるとか。
富田 活動の見える化。これまでは外向けの活動が多かったんです。今は内向きが増えました。
本多 平和堂さんに入ってもらって、買い物支援とか、空き家活用で移住者を受け入れるとか。島の人たちにとっても、メリットがある。これまでの沖島では、ありえなかったような事業ばかりなので、そこに携われたことは良かったと思っています。なかなか理解されないことも多いけど、いち主婦がよくここまで支えながらやってきたなって。自画自賛ですね。


〈写真キャプション〉
もんてくって沖島めし
もんてロゴ
沖島産品の詰め合わせ「もんてくーる」
アイランダーで沖島をPR
夏祭りの様子
「おきしまるしぇ」には島外からも多くの人が訪れる

〈インタビュー実施日・場所〉
2023月8月21日(月) 沖島コミュニティセンター

「沖島と人との関わりから考える」インタビュー集 第三巻 若いから、よそ者だからこそ、見える景色がある 塚本 千翔さん 川瀬 明日望さん 橋本 花菜子さん

沖島の人口は232人(令和5年9月現在)。内、島外からの移住者6人が暮らしています。沖島に移住を希望する人が一定数いるなかで「空き家はあるけど、貸せる状態ではない」という、空き家問題が立ちはだかります。そんな難しい状況を乗り越えて、沖島で働き、根を張ろうとしている3人の若者に、どんなルートで沖島にたどり着き、これからの沖島をどう考えているのかを聞きました。


沖島に根を張る新しいチカラ

―――皆さんが沖島に移住してきた経緯を聞かせてください。
塚本 僕はもともと出身が近江八幡市で、2018年に東京からUターンで戻ってきました。「離島暮らしがしてみたい」という気持ちがあって沖島に来たのですが、その時に出会ったのが、沖島町離島振興推進協議会*(以下、協議会)の本多有美子さん(第二巻に登場)。「沖島に住みたいです!」って言ったら、島の課題とか漁業の問題とか、いろいろ教えてくれて、自分ができることってなんだろうって考えるきっかけになりました。たどり着いたのが、協議会が借り上げていた離島ハウスを民泊にして活用するというアイデア。2019年4月から「沖島民泊湖心koko」をスタートしました。このあたりはnote(11ページにQRコード掲載)に詳しく書いてます。

―――漁師をやろうと思ったきっかけは何ですか?
塚本 イベントで湖魚を販売する機会があったのですが、漁師の苦労とか実感できないまま、ペラペラしゃべって魚を売っている自分にすごく違和感があったんです。「自分で漁師やるしかないな」という結論に至りました。もともと自給自足に興味があったし、自分で獲った魚やったら、さらにおいしいやろうなって。沖島漁業協同組合*(以下、漁協)の組合長に相談して、見習いとして船に乗せてもらって、今年3月に独立しました。

―――川瀬さんは地域おこし協力隊*でしたね。
川瀬 滋賀県出身で高校まで滋賀在住でした。京都造形芸術大学に進学して、漠然と「インテリアデザイナーになりたい」と思っていたのですが、「ソーシャルデザイン」とか「地域づくり」というワードが入ってきた世代だったんです。インターンシップで沖永良部島の観光協会に行ったりして、地域で働くことに憧れを持つようになりました。ある程度社会人としての経験を積もうと京都の会社に就職して、調理をしたり、イベント企画とか幅広くやらせてもらいました。20代後半になって、そろそろ動き出そうと思って、地域おこし協力隊に応募して滋賀県に戻ってきたという流れです。

―――沖島を選んだ理由は何かありましたか?
川瀬 琵琶湖とともに暮らす生活って、すごく特殊じゃないですか。知り合いもいないし、事前の情報もほとんどありませんでした。2022年3月に引っ越してきて、すべてが始まったという感じです。

―――ちょうどコロナの時期と重なるんですね。
川瀬 人は来ないし、島から船に乗るだけで「どこ行くん?」ってとがめられましたからね。ここから出られなくなって、ある意味地域の人と仲良くなるのは早かったと思います。漁師さんに魚の調理方法を教えてもらったり、漁船にも乗せてもらったり。コロナが収まってからは、マルシェに出店したり、レシピを書いたり、取材のお仕事も増えました。私は漁師さんたちと接している時間がすごく面白かったので、今は、沖島の漁協で働いています。

―――橋本さんも地域おこし協力隊ですね。
橋本 2023年4月に来たばかりなので、まだ4カ月ぐらいです。京都生まれの京都育ち。25歳まで京都で働いて、その後は東京のインテリア雑貨の会社に転職しました。店舗のマネージャーをしたり、オンラインショップを作ったり。販売部門全般をやっていたので「自分でもできるかも?」みたいな気持ちになったのが29歳の時。自分でやるんだったら絶対に関西に帰りたいと思ったのと「地域おこし協力隊」というワードが魅力的で。塚本さんが漁師に専念されるタイミングで募集していた沖島の地域おこし協力隊に応募しました。「民泊の管理人をしながら自立化を目指すことがミッション」という言葉にすごく魅かれて、それをきっかけに沖島に興味を持ちました。

―――自立化を目指すとはどんなイメージですか?
橋本 ずっと考えて、悩みすぎて、今はちょっとわけわからなくなってます(苦笑)。例えば、空き家問題がもう少しうまくいったら、沖島民泊湖心kokoの2号店を出すとか、物販もしてみたい。映画や美術館にもよく行くので、島にカルチャーを増やしたい。若い人たちが楽しめる場所があったら、移住者も増えると思うんです。でも、まだ1年目ですから、今は沖島のことを知る段階です。

―――民泊の稼働率はどれぐらいですか?
橋本 8月は80〜90%でした。ただ、民泊は年間での営業日数が限られているし、夏はかき入れどきだけど、冬はお客さんが減ると聞いています。


「よそ者」と言われながら模索する、適した距離感

―――超高齢化が進む沖島に来て、島の人との関係はうまく築けていますか?
橋本 島の人は、とにかく世話焼きで優しくて、本当に面白いです。みんな「はなちゃーん」って来てくれるし、帰ってきたら野菜が置いてあったり、雨が降ると洗濯物入れてくれてたり、新鮮なことばかりです。
塚本 僕もネガティブには感じていなくて、ある程度は「よそ者」と言われながら付き合っていかなくてはいけないんだろうけど、断っていいときは断れるみたいな距離感がわかってきました。
橋本 確かに「断らん方がいいやろな」ってことは、たくさんありますね。でも、私もネガティブに感じたことはなくて、あいさつは絶対するとか、お客さんがうるさかったら隣の人に「すいませーん」って声かけるとか、当たり前のことだけ気を付けています。
川瀬 私は行きたくないときは行きません。食べ切れないものは「いらん」って言います。
橋本 それは、すごい。
川瀬 それでこじれたこともないよ。最初は、ずっとイエスマンをしてたけど、2年目ぐらいから自分で線を引けるようになりました。私の場合は、沖島に関わりたいよその人との関係で疲れることが多かったですね。やりたくないことを、一緒にやろうと言われたり。
塚本 「新人漁師」みたいなテーマで、取材依頼がけっこうくるんです。僕自身、出たい気持ちはあるけれど、まだ一人前の漁師とはいえないし、体はひとつしかないですからね。若手の漁師が僕一人しかいないという課題はあると思います。
川瀬 組合に「漁師の研修受け入れられそう?」って電話掛かってくるんです。親方候補はいるけど、住む場所を提供できない。結局、空き家問題につながってしまうんです。
塚本 淡水湖の漁師ってほんまに珍しいし、海の漁師と比べてもめちゃくちゃ面白いと思います。仕組みを整えたら、来てくれる若者はたくさんいるはずです。


「沖島×若者」がもたらした、それぞれの変化

―――若い3人からみた、沖島の魅力とは?
塚本 僕は、やっぱり人ですね。すごく気遣ってくれるというか、見てくれている。優しさを感じます。歩いていて「何してるんや〜?」って声掛けてくれるのがすごくうれしい。漁師になって感じるのが、みんな協力し合っているということ。競争があるので漁場や獲り方は自分で試行錯誤しないといけないけど、協働しているところはすごくいいなと感じます。
川瀬 私は、さっき言ったことと反対になりますが、島外に沖島と関わりたい人がたくさんいることです。沖島のこと気に掛けてる人って、めちゃくちゃ多いじゃないですか。不思議な魅力があるんですよね。沖島にいることで、いろいろな人とつながって、いろんな仕事ができる。行政が一番多いんですけど、会社にいた時よりも圧倒的によその人と仕事をする機会が増えました。
橋本 私も、まだ4カ月ですが、人の魅力は感じています。でも、人だけじゃない。琵琶湖もあるし、自然も豊か。季節をしっかり感じられるし、地蔵盆とか春祭りとか、地域に根差したイベントもたくさんある。大人になって、東京や京都で暮らしてた時って、イベントに参加すること、ほぼありませんでした。昔からの習わしとか自然とのつながりとか、ひっくるめて、ここで暮らしている人たちの魅力だと思います。

―――毎日、琵琶湖を見ていると飽きたりしませんか?
川瀬 飽きない!年々、楽しみ方がグレードアップしている感じ。長期滞在しないとわからない魅力もあるし。
橋本 そうそう。だから、せめて1日は沖島で過ごしてほしい。日が暮れる時、朝日が昇る時、めっちゃきれいやから。

―――沖島で暮らすようになって、自分自身の変化も感じていますか?
塚本 一つひとつの暮らしを大事にするようになりました。例えば、以前はお盆イコールどっかに遊びに行くってイメージだったけど、島の人にとって、お盆ってどんな意味があるんだろうって。子どもや孫が帰省してくる。みんなで欠かさずお墓参りに行く。お盆ってそういう意味があったんだなって。秋には魚を供養する法要があるのですが、ちゃんと意味を理解した上で、毎年欠かさずに参加しています。自分で魚を獲って食べようとすると、汗まみれになるし、泥まみれになる。魚一匹の命でも、本当に大切に食べさせてもらうようになりました。
川瀬 私は圧倒的に仕事の幅が広がりました。私個人ではもらえない仕事も「沖島に住んでいる川瀬明日望」でもらえた仕事がめちゃくちゃ多かったと思います。
橋本 沖島民泊湖心kokoには、ほんまにいろんな人が来ます。レジャー目的だけでなく、「一人旅でちょっと休みたくて」みたいな女子もいます。そんな人たちとコミュニケーションとって「一緒にごはん食べましょうよ」とか「なんで沖島に来たんですか?」とか、声掛けて。「話し掛けないで」って感じだったら、私もちゃんと距離をとるし。すごく接客が好きになって、人が好きになったなと思います。

―――今後、沖島のコミュニティがどうなっていくか、感じていることはありますか?
橋本 私たちへのプレッシャーは感じます。
川瀬 むしろ、恐怖感!?(苦笑)
塚本 自分の中で、一本、線は引いておきたいですよね。「これからずっと島に住んでくれるんやろ」って思ってもらえるのはうれしいけど、そこはわからないことだから。
川瀬 私たちは、まだまだいろいろなことに関わりたい年齢です。
塚本 沖島のコミュニティということでいえば、やっぱりもともと沖島で暮らしていた人たちが軸として立ってほしい。僕たちはどこまでいっても「よそ者」という意識はあります。だからこそ、根っから沖島の人に先頭に立ってほしい。
橋本 若い人が入ることで島の人の意識が変わるといいですよね。そのためにも、若い人にたくさん来てほしいと思います。


沖島民泊湖心koko ホームページ
https://okishima-koko.com/


塚本千翔さんnote
https://note.com/suuujiebidayo/


〈写真キャプション〉
沖島の玄関口となる港にて 来島者と記念撮影する橋本さん(左端)
沖島民泊湖心kokoにて 来島者と記念撮影する橋本さん(左端)
フードストアソリューションズフェアにて沖島をPR
沖島より、対岸に昇る朝日を望む 写真提供:茶谷力
伝統的な漁の道具(沖島資料館)

〈インタビュー実施日・場所〉
2023月7月30日(水) 沖島民泊湖心koko

「沖島と人との関わりから考える」インタビュー集 第四巻 島の産業を支える漁業の今 黄金時代は再び訪れるのか 久田 清さん 小川 泰治さん

住民の80%以上の人が漁業に従事している沖島において、漁師の後継者をどう育てるかは、すぐにでも改善しなくてはいけない重要な課題です。2020年に漁師見習いとなった塚本千翔さん(第三巻に登場)が2023年に独立。沖島の漁師に関心を寄せる若者も増えてきて、少しずつ明るい兆しが見えています。島外で生活する子や孫との関係、若者の受け入れ方など、新たに生まれつつあるつながりを聞きました。

バブル以降「漁師はあかん」となってしまった

―――バブルの時は、魚がたくさん獲れたと聞きました。
久田 あの頃は、良かったよ。今は魚の値段が下がってしまって、漁師の魅力がなくなってしまった。昔はシジミもたくさん獲れたしな。

―――今では獲れなくなった?
久田 もう、ここらへんでは、シジミはあんまり獲れへん。琵琶湖の土質が悪いんちゃうか?シジミが育てへんのやろうな。
小川 シジミで生計を立ててたって、50年も60年も前。昭和30年代の話やで。
久田 シジミの殻が浜辺を埋めて、それで島が大きくなったって言われたんや。
小川 今ではコンクリで舗装されているけど、場所によっては、掘っても掘ってもシジミの殻が出てくる。沖島小学校が建っている下なんて、もう貝殻ばっかりよ。
久田 私らの時は、イケチョウガイを獲っててん。
小川 あれは、食用と違うて、真珠を育てる貝。昭和40年代に入ると全盛になって。中学を卒業して、1カ月ほど親と漁師やったら、「明日から行ってこい」って船に乗せられた。それだけ、漁師に魅力があった時代やね。真珠もだんだん養殖になっていって、落ち目になった。わずか10年ほどのことやったな。

―――漁師の後継問題も深刻だと聞きます。
小川 通船*ができたのが20年ぐらい前やけど、ちょうどバブルが崩壊して景気が悪くなった頃で。
久田 「漁師はあかん」ってなったな。
小川 若い人は、島の外に仕事を求めて出て行ってしまった。なんとか、1人でも漁師として残したいと思って、通船ができたんやけど、なかなか思うようにはいかんかったな。


―――島を離れた人は、近くに住んでいるのですか?
小川 ほとんどが近江八幡市内。遠くても滋賀県内やろうな。嫁さんもらって子どもができたら、今さら島には帰られへん。ちょうど出ていった世代の子どもたちに孫ができて、20歳前後になってる。


若い世代を漁師にできない、さまざまな壁

―――島の外で暮らしているけど、祭りになると帰ってくる関係人口は想像以上に多い気がします。
久田 何かあれば、みんな帰ってくるな。
小川 子どもたちにとっては育った島だから、愛着はあると思う。今でも堀切港にボートや小さな船を置いていて、休みになると魚を獲ったり、孫を船に乗せたりしている。
久田 釣りが好きな子は、島に帰ってきても釣りばかりしてるな。
小川 勉強や塾に追い回されてる子もいるけど、沖島に来たら自由に遊べるというか、自然と触れる場所があるからな。

―――若い世代に、漁師体験で関心を持ってもらうことはできませんか?
小川 よその子を船に乗せるのは危ないわな。自分とこの子だったら小学校の高学年ぐらいで「行きたい」って言うたら、乗せる人もあるかもしれんけど。
久田 自分の孫でも、怖いな。
小川 漁師の仕事もだんだん機械化されてきたやろ。操作ひとつ間違うだけで事故が起こる。何十年漁師してはる人でも、ちょっとしたことで大けがしてはる。船に乗って出るのは、それだけ危険ってことや。

―――今年はアユが獲れなかったってニュースになってましたね。
小川 まったく獲れなかったな。
久田 今年はスジエビもあかん。
小川 気温や水質の変化とかもあるのかもわからんけど、琵琶湖の魚って、何十年に1周期、入れ替わりがあるっていうよな。
久田 獲れんもんは、しょうがない。どうにもならんからな。
小川 燃料代も出えへんから、漁に出ない方がまし。ほんまに波のいい日しか行かんようになった。今の時期やったら底引き網やけど、何十年前やったら、1回引いたらそれこそようけ獲れたで。今じゃ、1日やっても赤字や。燃料代もむちゃくちゃ上がってるしな。
久田 そんな状態で、子どもに「漁師せい」とは言えへんからな。


若い世代が作ろうとしている新しい漁師のカタチ

―――魚が戻ってくる可能性はありますか?
久田 それは、わからん。
小川 こればっかりは、自然を相手に仕事してるからな。
久田 (漁獲量の)波があるのはわかるけど、今の獲れない波がどんな波なのかがわからん。
小川 大きい波か、こまい波か。自然のすることは、なんとも言い切れん。

―――獲れる魚が減ることで、売値が上がるということはないですか?
久田 上がってるのは、スーパーだけや。
小川 ひょっとしたら、漁師の売値は下がってるんちゃう?琵琶湖の天然モロコって、ちょっとええ時やったら、3000円/㎏ほどで売れていた。それが今では単価が1000円/㎏超える魚なんてほとんどない。
久田 仲買人さんに「そんな高いと困る」って言われたらそれまでやからな。
小川 去年あたりでも、気張ってモロコ獲りに行ってたまたまたくさん獲れた日には「買取量を減らしたい」って言われるねん。「10㎏しか買取できないです」って。そのくらいの量の売り上げでは船の燃料代にもならへん。
久田 昔みたいに獲ってきたら獲ってきた分、全部買ってもらえることもなくなったし、そもそも魚が減って安定した量渡せてへんでな。

―――直接、お店に売ることはできない?
小川 僕らの世代では仲買人さんとの取引が基本やけど、若い子は個人的にお店に卸してる人もいるな。
久田 それを仲買人さんが聞いたら、やっぱり頭にくるやろうしな。
小川 スーパーの売り場見て「なんで琵琶湖の魚ってこんなに高いの」って言ってはる話はよく聞くわ。
久田 僕ら末端の価格もなかなか厳しいんやけどな。
小川 漁師も苦しいし、他の業者にも商売の事情があるんやとは思う。何か良い方法があったらええんやけど。

―――琵琶湖で漁師になりたいって若い人は、毎年一定数いると思います。そういう人たちを受け入れる体制ができると後継問題に光が見えると思うのですが。
小川 今、若い塚本さんが、見習いから漁師になってやってはるけど、仲買にも卸しつつ、直接の販売方法も考えていて、複数の売り方を自分なりに考えている。
久田 これからの漁師は、そういうやり方やな。
小川 そうじゃないと生き残っていけへんと思う。若い年代の人は、これからどうしたら漁業がやっていけるか考えている。漁協(沖島漁業協同組合*)の組合長も、20代の若い子から、短期で漁師見習いしたいって話があったから、なんとか受け入れたいと言うてはったわ。
久田 ここで漁師やるなら島に住まなくてはいけない。住むとなると、今度は家探しが難しい。
小川 空き家は、なんぼでもある。修繕が必要やったり、契約の関係で貸すとなると難しいみたいやけど。
久田 みんなまだ、自分の親戚とかの空き家をどうにかせなとは真剣に考えてへんねんな。


〈写真キャプション〉
沖島の漁業ににぎわいを取り戻したい 写真提供:茶谷力
漁師は琵琶湖に祈りを捧げて漁業を行っているという 写真提供:茶谷力

〈インタビュー実施日・場所〉
2023月10月11日(水) 沖島漁協組合事務所

「沖島と人との関わりから考える」インタビュー集 第五巻 沖島で80年 生活・文化の変化と記憶の記録 森田 幸光さん 西居 英治さん 櫻木 みわさん

老人クラブとは、全国各地で結成され、地域を基盤として活動する高齢者の自主的な組織です。人と人のつながりを生む活動は、地域社会に孤独を生まないという福祉行政の面からも、重要とされています。沖島老人クラブ(以下、老人会)では、百歳体操やゲートボールなどで体を動かしたり、毎月清掃活動を行ったりしています。今回のインタビューでは、老人会のお二人と、小説家の櫻木みわさんに参加していただきました。櫻木さんは2018年に小説家としてデビューされ、執筆活動をされるなか、2022年、沖島に移住。島の方と積極的に交流を行い、老人会の活動にも参加されています。

祭りになると、子どもや孫が帰ってくる

―――森田さんと西居さんは、沖島で生まれて、ずっと沖島暮らしですか?
森田 はい。昭和22年生まれ、喜寿(77歳)になります。
西居 私は19年生まれで、79歳です。

―――今でも漁をされていますか?
森田 してますよ。昔は琵琶湖に自然に生息しているイケチョウガイを獲って、真珠業者に売ってたんや。
西居 海外から、バイヤーがアタッシュケース持って日本に来てな。
森田 日本の業者が大きく育てた真珠を買っていくんやけど、我々はその業者に貝を売るだけ。その頃は景気良かったけど、もうあかんな。
西居 琵琶湖が汚染された。
森田 貝が死んでいくからな。

―――琵琶湖総合開発*の影響ですか?
西居 あれで、何もかもあかんようになったな。

――お子さんたちは島外に住んでいるのですか?
森田 うちは、1人はこっちに住んでいて、1人は近江八幡市内でアパート借りてる。仕事の関係で、沖島からだと通えんときがあるさかい。
西居 子どもや孫は、お盆とか祭りになると帰ってくるな。
森田 この3〜4年はコロナで、何もかもが中止になった。8月の花火もやめてしまったしな。
西居 ほんまに、コロナっていうやつは、ひどかったな。祭りで子どもや孫が帰ってくるとなると、菓子を買うのに、70〜80人分は買ってたからな。これだけの人が島に関わってた。
森田 子ども用の小さい神輿があるんよ。それを子どもらが担いで、大漁船っていう小さな船を作って、神輿を乗せて引っ張る。祭りはにぎやかやったな。


帰ってくる家が有るのと無いのとでは、全然違う

―――1月の左義長*も家族で集まりますか?
森田 昔は青年団がやってたけど、今は青年団があらへん。
櫻木 皆さん、山に入っていって、鎌ですごく上手に竹を採るんです。15メートルはある大だい縄なわも自分たちでわらから編んで、すごい技術だと思います。
西居 跡継ぎがいないけんな。
櫻木 祭りがあると、30代、40代のお子さんがお孫さんを連れて帰ってこられるので、島への愛着を感じます。でも、もしおじいちゃん、おばあちゃん世代が亡くなって、実家がなくなったらどうなるのか。
森田 その時は、その家は終わりや。
西居 空き家はあかんな。3年も住まなんだら、ボロボロになる。シロアリが入って使いものにならんくなる。
櫻木 帰ってくる家が有るのと無いのとでは、全然違うと思うんです。
森田 両親が亡くなった後も、その家を借りるかっていわれたら、なかなかね。
櫻木 今は実家があるから、祭りのたびに帰ってくる。でも、これから先、沖島もすごく変わっていって、いろいろなことが同じように引き継がれていくわけではないと感じています。

今ではイノシシの島や

―――今でも琵琶湖の水を飲んだり、生活に使ったりしていますか?
櫻木 大きい道具を洗ったり、野菜をちょっと洗ったりはしていますよね。
西居 琵琶湖におりられへんようになってもうたからな。湖岸が整備されて。
森田 昔は浜にシジミの貝殻がずっと敷き詰められてた。
西居 琵琶湖の水も家庭からの排水で汚染されて、もうあかんな。
櫻木 鮒ずしの大きな桶とか、一緒に洗いましたよね。幸光さんは、ご自身では召し上がらないのに、鮒ずしやなれずしを作るのが上手なんです。
森田 食べるのは好きじゃないんだけど(苦笑)。
櫻木 英治さんは、月に1回、浜大津の駅前で開催されている朝市に行かれてます。
西居 沖島漁師の会で、毎月第3日曜日に販売してます。シジミを持って行ったり。

―――以前沖島に住んでいた久保瑞季さん(第六巻に登場)も参加されていますよね。
西居 あの子は気さくな子やな。
森田 最初に島に移住してきた学生が瑞季ちゃんやろ。

―――近年、地域おこし協力隊*や大学生が沖島で活動することが増えたと思いますが、どんな思いで見ていますか?
西居 それは、応援してあげたいと思ってる。排除したりすることはないな。

―――櫻木さんも、老人会というコミュニティに参加されていて、島の皆さんが外から来た人を受け入れている感じが伝わってきます。
櫻木 私は、本当に皆さんと仲良くさせていただいています。老人会の皆さんとは毎週、一緒に体操しています。祭りでは、大学生の方も神輿などお手伝いをされていて、島の外の方との交流もあります。

―――沖島で暮らしたいと考えている人もいると聞きます。
森田 住む場所が難しいな。空き家を壊してアパートを建てなあかん。島外から沖島小学校に通っている子も多い。そういえば、沖島小学校でアイスを作ってるんやけど、さつまいも畑がイノシシに荒らされて困ってるわ。
西居 3〜4年前からイノシシが対岸から島まで泳いで渡ってくるんよ。イノシシの島になるわ。
森田 今年は5頭、捕獲されたな。昨年は13頭やった。無線で、「今、かかりよったで」って知らせてくれる。すぐに血抜きして、塩、コショウで焼いて、おいしいで。
西居 最近はよくよばれるな。
森田 イノシシを退治しようと思っても、木が生い茂っていて山に入っていけない。昔は薪を使っていたから、山もきれいに整備されていたんやけど、今は誰も入らない。プロパンガスがあるし、電気もある。山では松茸もたくさん獲れたのに、みんな枯れてしまった。
西居 沖島の松茸いうたら、香りが良かったけどな。夕方、漁から帰ってきたら棚に松茸がダーッと並べられていた。秋祭りの晩に1年間、松茸を収穫する権利を持つための入札をするんや。最高100万円で落札されたこともある。これも昭和の話やね。


〈写真キャプション〉
子ども神輿を担ぐたくさんの子どもたち 写真提供:茶谷力
昔の沖島の湖岸はコンクリートで舗装されていなかった 写真提供:茶谷力

〈インタビュー実施日・場所〉
2023月10月11日(月) 老人会憩の家

「沖島と人との関わりから考える」インタビュー集 第六巻 未来に継承したい、沖島と人との関わり、そして文化 上田 洋平さん 奥村 ひとみさん 久保 瑞季さん 宮崎 瑛圭さん

少子高齢が進むなか、日本各地で存続が危ぶまれる限界集落と呼ばれる地域が存在しています。沖島は滋賀県のなかでも、最も深刻な問題を抱える地域ですが、沖島で暮らした経験がないにも関わらず沖島に関心を寄せ、問題解決のために力になりたいと考えている人が多く存在します。上田洋平さんは滋賀県立大学地域共生センターで地域学や地域文化学を教えています。20年ほど前から沖島に関心を持ち、島の人と関係を築きながら活動を続けてきました。その上田先生の授業をきっかけに、沖島に大きな関心を持ち、在学中に移住をしたのが久保瑞季さんです。沖島に移住した最初の大学生となり、島の人たちが抱いていた島外の人への壁を取り払う役割を果たしました。奥村ひとみさんは、第一巻に登場いただいた奥村良平さん、あいこさんの次女です。沖島を離れた時期もありましたが、2014年にUターンで島に戻り、カフェ&ギャラリー汀みずの精せいをオープンしました。湖魚をふんだんに使った料理を提供するだけでなく、ゲストを呼んでイベントを開催することで、島外の人が沖島に足を運ぶ機会を作っています。大学院の学生として建築的観点から沖島に関心を寄せ、汀の精がオープンした時に、デザイン面などでサポートしたのが宮崎瑛圭さんです。それぞれの沖島への思い、島外から見た課題解決に向けた道筋などを聞きました。


学生が地域社会に参加することで生まれる好循環

―――島の人たちにインタビューするなかで、久保さんが沖島に住んだことで、意識が変わったという話がよく聞かれました。
久保 私は交流会で、お酒を飲んでいただけですけどね(笑)。

―――どんなきっかけで、沖島に興味を持たれたのですか?
久保 大学1回生の秋に、上田先生の講義で沖島のことを知りました。大阪から滋賀県立大学に入って、滋賀県らしいことをやりたいと考えていたので「沖島、面白そうやん」という感じで島に行きました。
上田 「明日、沖島行きたいから車出してもらえますか?」って(笑)。
久保 その時は、言ってないです(笑)。近江八幡駅からレンタサイクルで堀切港まで行きました。初めて島に入った時の感覚は今でも覚えています。「なんだ、この時間が止まったみたいな感じは」って。それで、2016年、2回生の時にイベントの手伝いなどをする学生プロジェクト「座・沖島」を立ち上げたんです。沖島町離島振興推進協議会*(以下、協議会)の方から「祭りをやる時に人がいないから手伝って」と誘われて、学生を募りました。

―――そのタイミングで、沖島に移住されたんですか?
久保 移住したのは3回生の時。あるおばあちゃんに「島から出ていった息子さんに帰ってきてほしい?」って聞いたら、「帰ってきてほしいけど、島の外にはより良い暮らしがあるから、帰ってこなくていい」って言われたのが衝撃で。若い人が沖島で暮らすにはどうしたらいいかを考え始めて、若者が住むことで島の人が慣れてくれたらいいなと思って、まず私が住んでみることにしたんです。学生が課題を感じて、その場所に住んだり、ずっといることは、すごくいい影響があると感じていたので。2年間住んだけど、最初の1年はバイトと授業が忙しくて、ただ住んでいただけでしたね。
奥村 最初は瑞季ちゃんが、沖島で暮らすことに意味があったんだろうね。
久保 卒論で、島外から帰ってきた50人くらいにヒアリングしたんです。2年間住んでいたからこそ、島の人たちも自分の子どもに会わせてくれたんだろうし、卒論にまとめることができたんだと思います。結論としては、他出者*が沖島の将来の社会活動の担い手になる可能性があるということ。当時30代半ばだった他出者を、どうやったら中心にできるか。排他的といわれる沖島だけど、「戻ってきて大丈夫だよ」って安心感を持ってもらわないと、なかなか活動には入れない。協議会でも同じようなことが起こっていたんだと思います。島に嫁いできた女性が中心となって活動していたので、島の人たちとあまり関わりが持てなかった。彼女たちも島の人とコミュニケーションを取ることを最初にやったと言います。
上田 祭りの直なお会らえなんかの場で、他出子*たちに向かって瑞季さんが「なんやねん!」ってふっかけるわけですよ。よそ者の学生にやらせて「自分たちの島だろ」って。そうすると、他出子が「おまえら、沖島に何しに来てんねん!」「何ができるねん」って言い出す。すると、「おまえらがほったらかしにしてるから、学生がやってるんじゃないか」ってまたあおるんです(笑)。僕はそれを見て「しめしめ」と思っていた。瑞季さんが親世代と仲良くなることで、他出子にほのかなジェラシーが芽生える。その感情は沖島への愛情の裏返しでしょう。そんなふうに「異物」としての学生が混じることで、住民の心や関係にじわじわと「化学変化」が起きる。学生の触媒効果ってやつです。「座・沖島」は、「まなぶ」「まじわる」「ささえる」が合言葉だけど、いきなり「ささえる」なんて無理。でも、うまいこと島に受け入れてもらって、「まじわる」なかで「まなぶ」ことはできていたのかなと思います。
ソーシャルキャピタルが向上した10年間

―――上田先生が沖島と関わり始めたのはいつ頃ですか?
上田 学生連れで来たのは立命館大学のボランティア実習を手伝った、2000年代の半ばぐらいです。最初に沖島に来た時は、すれ違ってあいさつしても返事もしてもらえない空気があった。沖島に限らず、地域で学ぶには、最初から大きな声で主張するのではなく、人の話を聞いたり、関係を作りながら少しずつ話していくことが大切。私はヒアリングから始めました。
奥村 ヒアリングをすると、島の人たちも打ち解けていくんです。今回のこの取り組みもインタビューを軸にしているところが、すごくいいアプローチだと思います。

―――ひとみさんが、沖島に戻ってきて汀の精を始めたのが2014年ですね。
奥村 今年、10年目に入りました。開店時は宮崎君にも手伝ってもらって、お店の内装とかデザインを考えてもらった。10年前を知っている宮崎君から見たら沖島はすごく前進したって感じるみたいだけど、島の中で暮らしていたら全然進んでいないように見える。課題が多すぎて、やっても、やっても解決しない。
上田 ソーシャルキャピタルは、この10年で非常に豊かになったと思いますよ。島外の人との関係も含めて、多様な人が沖島の景色の中にいるようになりました。宮崎君がひとみさんと出会ったのは、いつ?
宮崎 大学の卒論で沖島の研究をしていた時だから、2013年ですね。僕は環境建築デザイン学科の学生で、環境にやさしい建築を設計することに興味がありました。建物が環境と人間の関係を解決するのではなく、人間が建物や環境との関係を解決すべきじゃないかと考えています。沖島には、島から一歩も出たことがないというおじいちゃんがいたりします。島の中のエネルギーやインフラで生活のすべてが完結しているんです。それをどう建築に取り入れるか。それが僕の研究テーマでした。

―――今回、インタビューして感じるのは、2014年頃からいろいろな取り組みがかみ合って、学生も入ってくるようになって、一気にソーシャルキャピタルが上がったということです。特に協議会が本格的に活動を始めてからの 10年はソーシャルキャピタルのすごさを感じています。
上田 他出子は、沖島からどのぐらい離れて暮らしているの?
久保 長男は沖島から10㎞圏内のところに住んでいます。理由のひとつはお墓があるから。他出子がくっつきやすいのは、「連れ」という存在が大きくて、要は友だち関係なんです。連れの人数が多ければ多いほど、島での思い出も多いし、愛着もある。今、30代ぐらいの世代が、沖島で暮らした思い出のある最後の世代かな。だいたい、みんな高校になると通えなくて出ていくんです。他出子のLINEグループを作って「同志会」と名前を付けたのですが、最初は「中年団でいいんじゃない?」って(笑)。今、同志会で「夏祭りやろう」と言ってるのは、40歳前後のやんちゃな世代です。
上田 マイルドヤンキー(笑)。地方って、そういう地元愛が強い若者が祭りを支えている。それは研究でも明らかにされています。沖島は、島で暮らす人だけをカウントすると限界集落です。他出子とか島外で支える人をプレーヤーとして勘定に入れなくてはいけない。沖島のこれからは、他出者が相談して決めなくてはいけないところに来ていると思います。関係人口ということでは、ひとみさんがつないでくれていて、汀の精がたまり場のようになっている。
奥村 イベントを開催しているのは、沖島の魅力を知ってもらうPRの場という意味もあります。島の資源や可能性を見つけて、それを伝えることで関わる人が増えていったらいいなって。これからは、もう少し、沖島の人口を増やしたいですね。関係人口もいいけど、移住者を増やしていきたいと思っています。


受け継がれていくべき、沖島の魅力

上田 みんなが沖島にいろいろな感情を持っていて、語るんです。そんな地域、他ではあんまりないですよ。
久保 沖島には、「ともやみ」って言葉があるんです。私、この言葉がけっこう好きで。私はよそ者ですが、沖島で暮らした時「ともやみ」を感じたことがありました。

―――「ともやみ」とは?
久保 「共に病む」という意味だと思うのですが、不安とか、恐怖をなんとなく島全体で共有するという感覚で、都会ではまずありません。ある日、通船*で事故があって、船がつぶれたことがあったんです。その時「これから沖島の交通はどうなるんだろう……」って不安をみんなが感じていた。夜、ドラム缶に火を焚いて「どうする?」「どうする?」って。
上田 都会には都会の「ともやみ」があるかもしれないけど、すごく大事な感覚だね。
久保 「ともやみ」の感覚を伝えるのはとても難しいけど、すごくいいなと思いました。島の人の心で、島全体の空気が変わるんです。本当に神の島なんだって感じました。沖島にはすごい引力がある。スピリチュアルというか、自然治癒の力も魅力です。フランスからアーティストが毎年演奏に来たりするのも、何かに惹かれるんでしょうね。本当に特別な場所だと思います。
上田 協議会が立ち上がった時、本多さん、富田さん、小川さん(第二巻に登場)があいさつすることになって、「800年続いた沖島を自分たちの代で終わらせたくない。自分たちの後の800年へとつなげたい」とおっしゃったんです。つまりこの人たちは、前後合わせて1600年が自分たちに関わりのある時間だと考えられているということで、これ、すごいなって思いました。
宮崎 地域に外部から大きな力を持った企業やコンサルが入ってきて、大きな変化を促すことがあるけど、それでは健全な議論がなされず、島が他人事になってしまう気がします。僕は失敗しながらもチャレンジして、ぼちぼち続けていくことで健全な変化が生まれると思っています。沖島のコミュニティの進歩の在り方は、すごく安心して見ていられるなと感じています。
上田 他出者とかよそ者が入って受け継がれるものは、これまで受け継がれてきたものとは、たぶん全然違うものになっていくんだろうね。
久保 島の方向性って、ずっと決まらないんです。そんななかで私ができることを模索しているのですが、最近、沖島の一番好きなところを考えていたら「人とその暮らし」だと気が付きました。日本全体で人口が減少していくなかで、沖島もゆるやかになくなっていくのかもしれないけれど、私はみんなが幸せになるようなものを残したいし、残す方法を考えていきたいと思っています。


〈写真キャプション〉
地域の人に交じって神輿を担ぐ学生たち
沖島の左義長祭り
宮崎さんが改装に関わった汀の精内装
学生と地域の皆さんで宴席
久保さんが島で受け入れられていることを象徴する1枚

〈インタビュー実施日・場所〉
2023月10月29日(日) 社会福祉法人グロー法人事務局

ページのトップへ戻る