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古谷秀男さん

作品調査

古谷 秀男FURUTANI Hideo

1941ー2024年 奈良県

古谷作品01
タイトルなし

制作年不詳 260×379 紙、ペン

古谷作品02
《湖》

制作年不詳 274×397 紙、ペン

古谷作品03
タイトルなし

制作年不詳 270×375 紙、ペン

古谷作品04
タイトルなし

2008年 274×397 紙、ペン

古谷作品05
タイトルなし

制作年不詳 265×380 紙、ペン

※以下の文章は、「滋賀県アール・ブリュット全国作品調査研究」令和4年度報告書から抜粋したものです。

 1957年、16歳の古谷は、家族4人でブラジルに渡り、それから約33年間農業に従事した。当時、日本はというと、戦後の急激な人口過剰が問題とされていた。その一環で大規模な移民送り出し政策に乗り出し、結果、船舶による集団移民が終了する1973年までの間に、約6万人もの人たちがブラジルへと移民することになった。古谷もその一人。ブラジル経済が深刻な不況にあえいだ1990年に帰国し、一時は料理屋で働くが、脳梗塞を発症。後遺症で半身麻痺が残ることになり、1997年、奈良県にある福祉施設で暮らすことになった。
 古谷が絵を描き始めたのは2005年、還暦を過ぎてからだった。その頃の古谷は、精神的に不安定で荒れていたそうだ。そんな古谷の様子を見た当時のスタッフは美術に造詣が深かったことから、画材を用意して絵を描くことを勧めたのだという。古谷が描いたのは、ブラジルでの経験が存分に活きた異国情緒漂う世界。心の内にあるものを描き出したことで気持ちは落ち着き、また、その表現行為はしだいに古谷の生活においてなくてはならないものになった。作品には夢や空想も入り混じるようになり、
独自の世界観は絶え間なく広がっていった。
 絵は主にB4サイズ程度の画用紙やイラストレーションボードを使用し、マーカーやペンを画材として描かれる。蛍光やラメ入りのキラキラしたボールペンといった画材も好んで多用するからか、絵全体はどことなくトロピカルな印象になっている。また、古谷の作品は線自体が魅力的だ。右半身に麻痺があったため、利き腕ではない左手で描いたことも影響しているのだろうか。一本一本の線は、走り書きでは決して出せない味わいがあり、作品自体の精度を高めている。さらに作品の細部を見ると、一つひとつの絵が緻密な描画の果てに生まれていることがわかる。題材の質感や模様は、ボールペンによる点描や細かいストロークを繰り返すことで表現し、色面までも同じくボールペンの描き込みで表現している。年を重ね描いた作品は300点以上。それらを見ていると、古谷の制作の中に徹底した作法のようなものが感じ取れる。
 「この木の下で恋をしよう。愛する君を幸せにしよう。いつまでも君を大切にしよう。この下で恋をしよう。」作品にはこのような恋愛詩や童謡が綴られることもあり、温かな情感を讃えている。また、画面には人の営みや動植物、昆虫などの生き物を2体ずつ描くことが多い。これらの表現は、古谷によるこの世界を生きる様々な存在に向けたメッセージなのかもしれない。絵の中であらゆる生き物が生命を全うする様子は、そこに流れる幸せな時を謳歌するかのようだ。(横井悠/ボーダレス・アートミュージアムNO-MA学芸員【執筆当時】)

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