NO-MA ARCHIVE(ノマ アーカイヴ)

Web記事
2006.2
ボーダレスという視点-2

小暮宣雄(芸術環境研究・京都橘大学教授)

この文章は、NO-MA旧サイト(2005~2012年)の「NO-MAを語ろう」ページに寄稿いただいたものです。原稿は2006年のもので、肩書は執筆当時のまま掲載しています。

ボーダレスというのは、囚われないことだろうと思います。

そもそもアーツという自由な表現に向かうのですから、鑑賞する側も自由になりに行くはず。なのに、評判や名声に左右され、それらを消費してメディアの「発信」記号を持ち帰ってしまいがちです。いま、美術館でもそんな壁をとっぱらおうとする試みがおきていて、いつも楽しみにしています。鑑賞は、創造的行為であって単なる消費ではないのですが、鑑賞が受身のものだと誤解されるとさびしいですからね。

NO-MAは近江八幡という小さな町にあります。近代的な美術館ではありません。ひっそりとした町屋、それも小ぶりの佇まいは、敷居というものがほとんどないかのようです。そこでは作品展示がボーダレスであるとともに、鑑賞する側もボーダレス、十人十色になればいいなあと常日頃、考えています。

一人でそっと土蔵の作品と向かい合ってもよし。時間感覚がどんどんスローになってきて、そのうちに昔話が聞こえてきます。二人でしみじみと見てもよし。マンネリになりがちな二人の関係にあらたな風をNO-MAでの鑑賞は起こしてくれます。グループでやってきて、2階の座敷スペースでお茶を飲み、あるいは、縫い物をしながら、思いもかけない話の半無意識的な展開に驚いてもよし。

気がつくと、ここに住んでいた方と話していたりもします。幽霊物語ではないですが、空気のにおいがずっと昔からつながっているような気持ちになるのです。そこの中庭とかに下りて歩いたりしていると物音が聞こえ、夕飯の支度が香ります。地元の人とお話をするのも楽しい。NO-MAにかつて住んでいられた方がこのあたりで能の仕舞のお稽古をしていたこと、あるいは、その方がお亡くなりになったときのお葬式の思い出・・・。

美術ギャラリーなのに、ただお話しをしてばかりのようですが、鑑賞とは作品の表現と作品がもたらす対話・会話から成り立っているのだなあとNO-MAにいると気がつきます。それはもちろん鑑賞者の内面での対話ということも含めて。

まちはひっそりとしているようで、実は訪ねてくる人がいるととてもおしゃべりになります。
孫がお盆に帰ってくるのをいまかいまかと待っている、縫い物上手のおばあちゃんのように。
そんなまちのおしゃべりを聞きに来て、いつしか、そのまちとの運命的えにしを感じてしまう。
まちの息づかいまで味わえるボーダレスな鑑賞の旅を。
この小さなNO-MAはいつも与えてくれるのです。
*こぐれ日乗 http://kogure.exblog.jp/

出典:NO-MA旧サイト(2005~2012)「NO-MAを語ろう」(2006年02年21日公開)

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