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刊行物2009.4
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滋賀県における障害のある人の造形活動の歴史とそのはじまり
山田宗寛
(社会福祉法人おおつ福祉会唐崎やよい作業所所長)
この文章は、『滋賀における障害者の造形活動に関する調査研究報告書』(2009年)に掲載された研究報告です。肩書は執筆当時のまま掲載しています。
はじめに
今日まで、アウトサイダー・アートは多くの作品が紹介され、社会的にも大きな関心を集めてきた。国内で アウトサイダー・アートが知られるようになったのは東京の世田谷美術館で開催された「パラレル・ヴィジョ ン-二十世紀美術とアウトサイダー・アート」(1993)からである。以来、多くの作品が生まれ、世に数多く 紹介されてきたが滋賀県の陶芸を中心とした造形作品は他県にない独自性が認められている。
本章では、施設を中心に取り組まれてきた造形活動の歴史とその活動に大きな影響を与えたとされる八木一 夫の関わりについて論じる。なお、滋賀県の造形活動の理念的な背景といえる福祉施設とその取り組みの歴史についても福祉関係者以外にも理解が得られるよう詳しく記した。
滋賀県の福祉施設のはじまり
滋賀県における造形活動の取り組みは戦後間もない頃まで遡ることが出来る。その1945(昭和20)年に終結した世界大戦によって、多くの国民が命を奪われ、家族が離散し、たくさんの人が負傷し障害者となるなど悲惨な惨禍が生み出された。そして戦後社会は様々な社会問題が発生し、とりわけ貧困問題は国民の生活と生命 に関わる深刻な状況をもたらした。そうした中で子どもたちや障害のある人たちは自分一人の力で生きていく ことが困難であり、餓えから死に絶えるものも少なくなかった。こうした状況を知るにはポピュラーなものとして野坂昭如の「火垂(ほた)るの墓」がリアルである。映画は戦争で親を亡くした兄妹が住む場も食べ物もないなかで戦火を逃れて町をさまよい、盗んででも食料を得なければならない状況下で果敢に生きようとする姿が描かれている。しかし、終戦となっても駅構内で命が絶えそうになった主人公のそばを大人たちは平然と歩き、社会から見捨てられた存在となって救われることなく絶命してしまう。こうした戦災孤児は貧困のなかで餓え、反社会的行為を行い一般の人たちを脅かすと「浮浪児狩り」ということまで行われた。そうしたなか で滋賀県では「ちまたに放置されたままになっている戦災孤児や、家庭でも地域でも見放されている知的障害児が一人でも多く、そして一日も早く入所させられる施設をつくりたい。この子どもたちの教育と福祉の実践こそが戦後の日本再建のもっとも大切な事業である」と糸賀一雄、池田太郎、田村一二という3人が、教育と福祉への理想を実現する施設づくりを構想する。それが「近江学園」であり、1946(昭和21)年、滋賀県大津市の南端の淀川水域へとつながる琵琶湖が瀬田川となり、宇治川へと流れる洗堰にある南郷の地の小高い丘に開設される。
滋賀の福祉と3人の先駆者
滋賀県における障害児者の造形活動は近江学園や3人の福祉や教育の実践や思想と深い関わりがあると言え、滋賀の福祉について触れておきたい。
糸賀一雄は1914(大正3)年に鳥取市に生まれ、京都大学で宗教哲学を学び、京都市立第二衣笠小学校で代用教員として一年間勤める。その後、滋賀県職員となり配給などを担当する食料課長に就き、近藤廣太郎 知事の秘書課長となった。そして近江学園の園長となり、「この子らを世の光に」や発達保障という福祉思想を持ち、障害児者の福祉や教育に関する事業に取り組んだ。障害のある人たちの人として生きる権利や福祉や教育によって可能性を最大限に引きのばし、自ら輝く存在として社会を発展させていく主人公として位置づけた糸賀たちの思想と実践は、今日にも生きる福祉理念であり、20世紀の社会福祉の発展にとっても大きな功績となった。この糸賀の「この子らはどんな重い障害をもっていても、だれとも取り替えることもできない個性的な自己実現をしているものである。人間と生まれて、その人なりに人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である。私たちの願いは、重症な障害をもったこの子たちも立派な生産者であるということを、認め合える社会をつくろうということである。『この子らに世の光を』あててやろうという哀れみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよ磨きをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。この子らが、生まれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである」という福祉思想は、それまで慈恵的だった福祉や同じ時代にヨーロッパで提唱されたノーマライゼーションの考えよりも発展的と言われる。同時にこれが滋賀の福祉の理念とも言える。
池田太郎は1908(明治41)年福岡県に生まれ、京都師範学校本科第二部を卒業し、京都市立第二衣笠小学校に勤める。秀才児や障害児教育の研究で京都で著名な教育者となるが、1943(昭和18)年には虚弱児施設であった 三津浜学園に勤め、近江学園では職業指導を担当した。1952(昭和27)年に信楽寮(現信楽学園)の寮長となり、1955(昭和30)年には信楽青年寮を開設する。今以上に偏見が強かった時代に、信楽に障害者も共に働き暮らせる町となるよう取り組み、住民のあたたかい理解のなかで一般家庭で寮生を住まわせた民間下宿の取り組みは現在のグループホーム制度へと発展させた。1987(昭和62)年に79歳で死去した。
田村一二は1909(明治42)年に京都府舞鶴で生まれ、京都師範(現京都教育大学)図画専攻課を卒業し、京都市滋野小学校で障害児学級の担任として勤める。1944(昭和19)年に糸賀が開設した石山学園に迎えられ、田村は15人の知的障害児と寝食を共にし、施設を開墾する生活を2年間送る。近江学園の副園長となり、一麦寮の園長を勤める。1971(昭和46)年に「茗荷村見聞記」を出版し、1979(昭和54)年には映画化された。この作品は障害のある人もない人も、年寄りも若者も汗を流し、自然を大切にし、仲良く暮らす茗荷村に主人公の田村が訪問し、村長の案内で見学するという内容である。1975(昭和50)年に茗荷塾を始め、1982(昭和57)年に滋賀県愛東町に茗荷村を設立し、そしてユートピアを実現させる。田村は自らも絵を書き、芸術ともつながりの深く、芸術家との交流もあった。近江学園でも「一人一芸」を言い、職員向けに絵画教室も開催していた。1995(平成7)年に86歳で死去した。
近江学園と粘土の出会いと滋賀県における粘土作品の誕生
開設当初、近江学園は知的障害児と戦災孤児、生活困窮児との2部制で、児童養護施設でもあったが、障害のない子どもたちは親に引き取られたり、卒業したりするなどし、行き場のなかった障害児が園に残り知的障害児施設となったという経緯がある。「教育的であってしかも営利的であるような各種の生産現場を用意して学園の独立自営をはかる」ことが園の運営方針で、教育部、職業指導部など部門があり、当初は「(1)農業(2)畜産(3)窯業の三本立てで産業的な整備をはかる」こととなった。窯業は「その作業工程が土堀りから土練り、成型、ロクロ、型押し、素焼、絵付け、本焼きや楽焼、販売と一環したものの中に、実におびただしい変化を含んでいるということと、たまたま学園の土は、田上の平野をへだてて前面にそびえている田上山を越えた、信楽という古い窯業の産地と脈が続いていると考えられたし、その信楽には、業界の主だった人たちに昔から私は公私の深い親交があった」というのが糸賀の考えであった。昭和22年の園報では「たまたま学園の建っている丘、それぞれ自体が極めて優秀な陶土であり周辺の山々の土がまた立派な陶土である。これらの土は信楽で試験された結果、その地ものと全く同じ土であることが判明した」とあり、「我々は狂喜して学園に窯業の設置を念願した」「教育的営みとして、またそれ自体が立派な職業的陶治ともなる焼物作業は、子供達の夢をも豊かにしてくれることを信じる」と大きく期待が寄せられた。そして「信楽の名工『たぬき屋』の主人藤原古仙堂はこれを伝え聞いて、自分がその築窯奉仕の任に賜りたい」と三室の登り窯である南郷焼窯が1947(昭和22)年の夏に築かれた。そして、土練機、ロクロ、ミルなど窯業作業ができるように当時の額で50万円という金額を投資して、翌年の1948(昭和23年)年6月に窯業科が発足する。主任は古仙堂の跡取りという若い息子で取り組みが始められた。
しかし、「しかし、われわれの絶大な期待と夢にもかかわらず、この窯業が失敗の連続となって、われわれは手痛い痛手を受けなければならなかった」というように糸賀にとっては「にがい経験」となった。窯業科主任は窯を使いこなせず「親父のつくった窯の出来が悪いので、これをつきなおすのだといって、とうとう古老の苦心の窯をたたきこわして、その横にひとまわり大きな窯をきずいた」がそれは「素人眼にも貧弱な窯」であった。それから「4年間のうちに、窯をつき直すこと3回、いつの場合も火の温度は素焼きの程度しかあがらなかった」という失敗となったのである。さらに、コンロのス(火皿)を1万個つくったが、型が大きくす ぎて売れなかったなど「窯業科空白の4年間」となった。
しかし、生産としては失敗であったものの「土に触れるなかで子供たちに土に対する関心を高めることになり、特に知的障害教育の教材としては面白かった」と違う方向での成果が見いだされることとなった。当時は「本焼きの窯の傍らに作った楽焼きの小さな窯」がつくられ、こちらの方が活躍していたそうである。1990年代はじめに大津市にある唐崎やよい作業所に初期の窯業科の指導者だった路睦夫が窯業指導を行った時も同様の窯が築かれていた。直径1メートル、高さ1メートル余りの円形状の窯で、土壁を素材とし、窯の底部分には小さな穴がいくつも開いたスがおかれ、下から薪を焚いて、焼くというものであった。800度以上にはならず、丈夫な焼き上がりではなく、破損も多かったが、野焼きとも違う素朴な火色がつき、大きなものも入る、知的障害者がつくる自由な作品には向いた案であった。この窯で作品が焼かれるようになり「小さな子どもでもおとなでも、粘土細工というものには不思議に興味をもつもので、それが焼き上がって出来るときには、固唾をのんで見守るのだ」と「学園の楽しみの的」となった。
作品も記録も残っておらず、実物の証言も得られなかったので残念であるが、糸賀の文章には「舌を巻くような独創的な芸術的なものも発見された」という記述がある。おそらくこの時が陶土による造形作品の誕生であり、滋賀県のアウトサイダー・アートの出発点と言えるかも知れない。
この窯業科の出発でのつまずきは滋賀県での粘土と知的障害者という関係では二つの道を歩む、出発点であり、岐路であったと考えられる。ひとつは本論で展開しようとしている陶土による造形作品への発展していく道であり、もう一つは信楽で窯業を中心に障害者が働き、暮らす地域づくりへ発展していく道である。前者の歩みを推し進めた中心的存在は田村一二であり、後者は池田太郎である。信楽の町と障害者の関係について後述の「滋賀県内施設での作陶と信楽」で詳しく展開されるが、窯業科空白の4年間は歴史的に振り返れば「経済的な自立自営とか、独立採算とかいう理想に照らしての失敗であって、子どもたちがともかく土に親しんで、粘土をこねたり、ひねりで何かを作ったり、単純な型押しで量産をはかったりしていることは将来への準備として見れば有意義であったといえないことはない」と糸賀も言ったように、歴史的には今日の造形活動に続く助走期間であったと言える。
滋賀県の福祉施設の広がりと造形活動
滋賀県の福祉は福祉施設が相互に関連を持ちながら発展してきている。これから述べる各施設での造形活動を理解するために予備知識的な説明をしておく。
(滋賀における福祉施設での陶芸実践と八木一夫氏の関わりの系譜:別添1-1)
(近江学園と糸賀一雄の福祉思想:別添1-2)
障害のある人の福祉はその問題に取り組むなかで課題や成果が見いだされ、必要な施設や制度が当事者や家族、関係者によって提案あるいは訴え、整えられてきた。近江学園でも積極的に障害のある人や子どもの問題に取り組む中で、様々な課題を持つようになった。糸賀たちは障害のある人たちにあった施設をつくり、その実践のなかで問題に取り組んだ。近江学園の福祉理念は新たな施設にも引き継がれ、さらなる障害福祉の発展とつながっていった。これは近江学園が親のような施設で、そこで生まれた課題が種となり、そこから枝分かれするようにいくつかの施設が生まれた。近江学園での障害の重い子どもたちに取り組むさくら組は知的障害児施設として落穂寮(1950年)に、窯業を中心とした職業教育は信楽療(1952年)に、女子の施設としてはあざみ奈(1963年)に、成人になった障害者は一麦寮に、医療的にも重度な障害児に取り組んだ杉組は重症心身障害児施設のびわこ学園にというように次々と施設が作られていった。また、それぞれの施設づくりは近江学園の職員が中心となって取り組まれ、糸賀たちの思想も継承されていった。さらに今日の共同作業所や授産施設にも関連施設で働いた職員が携わり、糸賀の思想は今日も継承されている。
落穂寮の絵画と全国最初の展覧会の取り組み
落穂寮は近江学園のなかでも知的に重度な子どもたちの施設としてスタートした。開設当初は子どもたちは「笛ふけど集まらず」と落ち着かない状況で、主任指導員だった岡山喜久治は何か良い活動をと絵画に取り組む。塗り絵からはじめ、子どもの創造性が広がらないという点で良くないと評価をしているが、その塗り絵は石山学園時代から保母をし、田村から絵画教室で絵を学んでいた初田が元絵を書いたもので、それが一年後に自分で描き出す子どもたちの絵画へとつながっていく。岡山は、糸賀と東京へ行った時にゴッホや山下清を世に出したことで有名な式場隆三郎の病院に立ち寄り、子どもたちが描いた作品を見せる。すると式場は「これは面白い、もっと書かせてくれ」と言い、経営していた東京タイムスで展覧会を開こうということとなった。当時、厚生省(現厚生労働省)はこの話に「なんでそんな勝手なことをするんだ」とひどく怒ったそうであるが、その2、3年後には厚生省主催で知的障害者の作品展が開かれことから、展覧会が取り組み始められる契機になったと言える。
展覧会は1955(昭和30)年3月に東京渋谷の東横デパートで行われ、同年に美術手帖臨時増刊号に「ちえのおくれた子らの作品」として落穂寮の絵画が特集として取り上げられた。この時に当時、教育不能と言われていた重度の知的障害児者の作品を前にして「これらの絵の発展をみると、可能を信じたくなる。やらせればここまでのびるのだ。私はただ徒に知的障害児の作品の面白さを賛美するものではない。その芸術的、社会的意義を信じずるものである」と言っている。このように落穂寮の展覧会は全国的にも施設で取り組まれた最初で、その反響も社会的には大かったと言える。
八木一夫と近江学園での粘土指導
八木一夫は1918(大正7)年に京都清水の陶芸家八木一艸の長男として生まれ、それまで陶器と言えば皿や茶碗と決まっていた陶芸の世界で、実用的な機能や形態にとらわれないオブジェ焼きと言われる「ザムサ氏の散歩」という作品を発表し、「走泥社」という前衛的作家集団を結成したことなどで知られる作家である。そのオブジェ焼きを始めた頃の1954(昭和29)年に近江学園にボランティアとして出入りするようになる。当時、チャリティ的な財政支援も意図していたようだが、八木は近江学園の子どもたちと出会い方針を変更する。それは純真な創造性を大事にし、単に陶芸の技術を教えるのではなく、一緒に生活することに重きをおくようになる。周囲の作家たちにも近江学園の子供たちの作品を「ピカソ顔負けや」と言って、その感動を伝えていたと言われている。
八木は「酒飲み」で有名で窯焚きの時などは職員とドンチャン騒ぎをし、当時、研究部の田中昌人の妻、田中杉恵は「夜中に騒いでハレンチな人でした」とその印象を話したことがある。八木の破天荒振りは近江学園の職員にとっては騒がしい存在でもあったらしい。しかし、近江学園に通った後、交流のあった石原繁野は「八木先生って、知的障害の人をなんとかしなければと一途ではだめだ。もっと開放されないとだめだ、という考えがあったと思う」「八木先生のすごい力というのは、糸賀先生と田村先生しか理解できていなかったんじゃないかな」と言っている。そして石原は八木とテレビに出演し、その時の受けた配慮から「ごく細やかな人でした。繊細で。本当に、普通には分からないけど、細やかな人でしたけどね。行き届きすぎていると思いますけどね」と話している。そして「田中先生なんかがまじめな事を言おうとすると、茶化して変な事を言うものだから、受け入れられなかったとおもいます」と言い、あざみ寮ではそうでなかったと言いながら近江学園では大人には嫌われていたかも知れないけれど、「やぎ、めー」と冗談を言われ笑っていた様子を話しながら、子どもには好かれていたと言っている。
この当時の口癖は「不良やさかい」と言われているが、その行動は言葉通りだったらしいが、実際の粘土指草では違った。先述した保母の初田は「指導はピカイチ」「子供の持つ力を最大限、引き出すことが出来た」と言っていた。八木の粘土指導は「子供が自分から粘土に近寄ってくるまで、絶対に無理に粘土をさわらせてはならない」「ものを造ることをおしつけてはならない」「子供たちが作っているときに口を出してはいけない」というものであった。それは作り手の主体をどこまでも大切にしたもので、その構えが表現を引き出していったと言える。このことは後述する「土と色展」や滋賀県の造形活動の理念となっていく。
それは「主として器の類を作った。子供の作品そのものの面白さを認めつつ常に良いものが出来たと励ましながら続けていかれた。何時にない活気が見えて子供たち喜んで作業した。確かに指導だと、本当によく分かった」「それは子供たちがつくった作品は否定することなくええのができた、ようがんばったと励ましつつ、求められれば惜しげもなく新しい技術を伝えていった」という様子であった。八木は「彼らは土を介して白分の胸中に祐佛してやまない何かを素直にあらわしたのだ。ぐにゃぐにゃと土を触っているうちに、まるで土が子供たちにそうさせるかのように自然な流れで出来上がっていく。粘上でなんらかをかたちにするプロセスは違っていたが、そのようにして生まれた造形は、どんな小さなものでも、土のかたまりのようなものでも、一つ一つが間違いなく子供たちの心の奥底からのメッセージであった」と子どもたちの表現をどこまでも受け止めていった。
数少ない資料で八木氏が近江学園の子どもたちへの粘土指導について考えた記録がある。先述した窯業科の方針でもハンドクラフトという表現がされているが、そこに知的障害児に対する造形の方向性が示唆されている。それは「粘土の生きている性格と人間の生きている手との関係」において造形が生まれるとし、「子どもたちのもつ動作のいっさいはすべて主体的な自己の生活そのものであろう。他との関係において自己を知覚するよりも、自分の動作、及びそれより生じた結果によってのみ、自己の生きていることを感覚する」と言い、機械に働かされるような働き方に対して「人間不在的動作を、彼らがとるとすれば、それは死以外のなにものではない」とまで言っている。
八木は近江学園で1年間を過ごした後に「てまりをつき、かくれんぼをし、人の鼻汁をかんでやる、そんな心にいつとなく染まりかけ、あわてて逃げ戻った…」と後に語っているように「花に水をやることを教えると、雨の日もカッパを着て、水をやりにいく」と「あまりにも純粋な行動に心打たれ、自分の創作どころでなくなる」から学園を去った。
わずかな期間であったが八木の近江学園との関わり滋賀県での造形活動に決定的な影響を与え、確立させた。
(滋賀の造形活動は八木一夫との取り組みを基点に、あるいは近江学園を出発点に、それ以降につくられた施設で実線理念が継承されていく。次にはそれぞれの施設での取り組みを紹介する)
一麦寮での粘土
近江学園は児童施設であり18歳を超えると入所が認められなくなり、職員の支援でつくった一麦荘に年少者が暮らしていたが満杯となって、成人のための施設として一麦寮が1961(昭和36)年に開設される。寮長には田村一二が就き、窯業科がもうけられる計画があったが実際には1965(昭和40)年に吉永太市らによって始められる。一麦寮での粘土の活動は「近江学園では製品の生産をその中心に置いていたのに対し、一麦寮では製品の生産は行なわず子供たちに全く自由に粘上を扱わせる」方法で取り組みが行われ、八木一夫の弟子二人も住み込みで指導に関わった。この一麦寮での取り組みは「土の自由な造形を通して、子供の可能性を引き出す教育をこころみようとしていた」ものであった。それは、それは遊戯焼を名付けられ八木氏の指導理念を実践しようとするものだった。
その粘土室は「スレート葺きの工作室のような印象です。中に入ると踏みしめたことがない土間で、プーンと土の臭いがしました。周囲の棚には 置くところがないほど作品が並んでいて、中央には作業台がいくつか無造作に置かれ、そのままに戦後間もない頃に教室でつかわれていたらしき木のいすが並んでいました。部屋のすみにはダルマストーブが置かれています」というような状況で、「作品自体が生き物のようであり、また粘土室という空間もなにやら生命体のようでいた」と語られているように、生命力が感じられる場だったようだ。
指導者であった吉永太一は滋賀県での造形活動の中心的な役割を果たし、一麦寮での粘土の実践は後継の指導者にも大きな影響を与えていった。
第二びわこ学園(現:びわこ学園医療福祉センター野洲)
第二びわこ学園は1963(昭和38))年に開設された第一びわこ学園に続いて、湖東地区の野洲に1966(昭和41)年に建てられた重症心身障害児施設である。病院機能を持ち、いわゆる寝たきりの障害児と「動き回る重症児」と呼ばれた今日で言う行動障害を併せ持った人たちが暮らす施設である。
1970年頃に一麦寮での粘土活動に学び、刺激を受けた田中敬三が、困難と思われていた重症児たちへの粘土の活動を始める。取り組んだ当初は職員からも批判的な意見もあり、きいきとする園生の表情などを撮って写真展をするなどして周囲の理解を拡げる。取り組まれた粘土のサークル活動は認められるようになるものの、作品の保管場所がいっぱいで邪魔になる、畳が汚れる、などの状況が生じていった。(重症児施設でありプレイルームはあるが作業などが行える場は整備されていなかった)そこで園長であった岡崎英彦が粘土室の設置に理解を示し、資金を集めを行う。そして、1979(昭和54)年に粘土室が完成する。それは「7メートル四方の鉄筋プレハブ。下の方はコンクリートブロックレンガが積んであり、その上にペコッとした鉄板が巡らされています。床はコンクリート、屋根にはスレートがのせてありました。部屋にあるのは作業机とパイプいす、数台のアングル棚、そしてすみっこに手洗い用のタイル貼りの流しがあるだけです」というものであった。
この「粘土室」での田中の実践は、園生にとっては日常の生活とは違った場所で、粘土の感触をどこまでも園生に親しませ、愉快な「あそび」を展開させるものであった。また「粘土の世界はその人に合わせて、自在に変化し、心を引き出していきます」と語っている。粘土を触るときのにゅるにゅる、ねちゃねちゃなどとその音が「な」行であったことから「にゃにゅにょの世界」と名付け、独自の展覧会も各地で開催している。1991(平成3)年に信楽で開催された世界陶芸祭の際に発行された記念切手には園生の戸次公明の「蛙」という作品が採用され、粘土活動は「私の季節」という映画になっている。
作品は薪窯ではなく、粘土室の奥にあった灯油窯で園生の表現を損なわないように独自の焼成法で焼かれ、粘土室は多くの作品で埋め尽くされていた。しかし、この粘土室は2004年の施設の移転に伴い取り壊されている。(新しい施設にも粘土室は設置され活動も続けられている。)
ここに紹介した以外に滋賀には造形活動に取り組んだ指導者が多くいる。この調査のインタビューも参考にしてもらいたい。ここでは簡略的に紹介しておく。
「落穂寮」「かいぜ療」「やまなみ共同作業所」(現、やまなみ工房)で粘土の指導者であったのは池谷正晴である。作品づくりは土管などの筒状のものにひもづくりで型をつくり(大きく、背が高い作品が作陶可能)それをベースに模様をつけ、人に見立てられると土偶的な像となる。それを黒陶で焼き上げるのが池谷の方法であった。今は「栗東なかよし作業所」で山裾に手作りで工房を築き、登り窯を築き、作品が焼成されている。また、「あざみ療」では織物とあざみ織りが指導者の石原繁野によって、「もみじ寮」では井上正隆が粘土の活動に取り組み、その両施設で「ロビンフットの冒険」という演劇活動が行われた。「土と色」展の時代には「湖北寮」、視覚障害者施設の「彦根学園」なども造形活動が取り組まれ始めた。「信楽青年寮」については後述にもあるとおり独自の取り組みを行っている。
さらに1990年以降は障害のある人の生活の場が地域へと移行していく中で施設も通所施設が増え、「働く場」である共同作業所や通所施設でも「労働」以外の活動に取り組みがされるようになった。1990年前半頃から通所施設のなかで造形活動をアトリエ活動として取り組んだのが「やまなみ工房」で、その作品は全国の先駆け的なアウトサイダー・アート展に出展している。1990年代後半から「唐崎やよい作業所」でも取り組みが始まった。
ここに紹介した取り組みの担当者は「土と色」展に参加し、そこでの学びが大切にされている。先述してきたように近江学園からの実践は今日においても脈々と継承されていると言えるが課題も生まれている。
福祉施設で職員は福祉職として採用されているので長年、造形活動の担当することは難しいところが多い。「土と色」の時代までは一人の職員が何年も造形担当として配置され、その施設の造形活動の一時代を築いたが、今はその人たちは退職してしまっている。多くの施設の場合、担当者がいなくなることで造形活動の継続が困難になっているのが実情でもある。それは粘土という焼成や指導の技術を熟練させるまでに何年もの時間が必要なことと、何よりも福祉職で就職した職員が障害のある人の表現を見抜き、引き出すという仕事に関心を持ち、熱意を持って取り組むようになるにことは容易ではない。専門職と呼んでもおかしくない。
しかし、現在の福祉の厳しい情勢のなかで、離職率も高く、一つの職場に長く止まる職員も少なくなっている。前任者が退職すると引き継ぐ人がなく造形活動が活動中止になってしまっているところもある。造形活動は担当者の影響が大きく、活発に活動が取り組まれていてもその担当職員が退職すれば活動は下火となってしまう。今の障害者自立支援法の影響で施設に財政的な余裕は全くなくなり、ますます文化的な取り組みに人や時間をさくことが出来なくなっている。
ここで紹介してきた実践は障害のある人の表現を一時代を築いてきたといえる。
参考文献
・田村一二著『カッパ沼』1999年 日本放送出版協会
・糸賀一雄著作集刊行会『糸賀一雄著作集I』1982年 日本放送出版協会
・糸賀一雄著作集刊行会『糸賀一雄著作集 II』1982年 日本放送出版協会
・『近江学園年報6号』滋賀県立近江学園
(別添1-1)滋賀における福祉施設での陶芸実践と八木一夫氏の関わりの系譜
1940年 近江学園に登り窯が築かれる。(南郷焼窯)
1944年 近江学園で窯業はじまる。
1948年八木一夫、走泥社を鈴木治、山田光とともに結成。
1953年 八木一夫、近江学園に出入りするようになる。
1955年 八木一夫、近江学園窯業科のボランティア指導員になる。
1965年 一麦寮で陶芸の取り組みをはじめる。(指導者 吉永太一)
1966年 一麦寮作品展示即売会(阪神百貨店・大阪)
八木一夫、一麦寮で粘土を始めるに際し、弟子2名を派遣。
*この年より、あざみ寮・もみじ寮などともに展覧会が毎年開催されるようになる。
1975年 「福祉施設にいる人たちの作品展」始まる(1982年頃まで、続けられた。)
粘土サークル始まる(第二びわこ学園)
1977年 第二びわこ学園粘土室設置(指導者田中敬三氏)
1979年 「土と色ちえおくれの世界」展 京都市美術館開催(以降、2年に1回、10回開催)
1981年 世界陶芸祭「土うたう」展」滋賀県立陶芸の森開催
1991年 「八木一夫が出会った子供たち」滋賀県立陶芸の森開催
*近江学園から発展した施設の設立年
1946年 近江学園
1950年落穂寮(重度児)
1952年 信楽学園
あざみ寮
1961年 一麦寮(成人重度)
1963年 びわこ学園(重症児者)
1965年 第二びわこ学園
1969年 もみじ寮
(別添1-2)(近江学園と糸賀一雄の福祉思想)
近江学園は、1946年滋賀県大津市の南郷地域(大津市南部)に、糸賀一雄、池田太郎、田村一二により創立された知的障害児施設である。創設者であった糸賀一雄氏は「この子らを世の光に」と、それまで慈善的な福祉の対象でしかなかった障害のある子どもや障害のある人たちを、新しい社会を創造する担い手たちであると唱えた。その考えは「この子らはどんなに重い障害をもっていても、だれととりかえることもできない個性的な自己実現をしているものなのである。人間とうまれて、その人なりの人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である。私たちのねがいは、重症な障害をもったこの子たちも、立派な生産者であるということを、認めあえる社会をつくろうということである。『この子らに世の光を』あててやろうというあわれみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよみがきをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。この子らが、うまれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである。」という言葉に代表される。
出典:『滋賀における障害者の造形活動に関する調査研究 報告書』(2009年4月1日発行)
財団法人ポーラ美術振興財団助成事業