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東 健次

作品調査

東 健次Azuma Kenji

1938-2013年 三重県

「虹の泉」正門から望む
正門から望む

「虹の泉」空と森の木々に映える雲の峯と樹人像群
空と森の木々に映える雲の峯と樹人像群

「虹の泉」雲の群の向こう最奥部に大陶壁と翼壁。 右手にミューズの丘。左手に樹人像の群。
雲の群の向こう最奥部に大陶壁と翼壁。 右手にミューズの丘。左手に樹人像の群。

「虹の泉」細部1
細部1

「虹の泉」細部2
細部2

「虹の泉」細部3
細部3

※以下の文章は、滋賀県アール・ブリュット全国作品調査研究令和7年度報告書から抜粋したものです。

陶芸空間「虹の泉」
 その場に佇む。これは鑑賞とも消費とも異なる、陶芸空間「虹の泉」への繋がり方だ。「虹の泉」は三重県松阪市の山間部、飯高町にある。山を背景とし、木々に囲まれた野外空間5600平方メートルに、数多くの陶芸作品が、山や木々、風や光、空や雲、雨や雪、鳥の声やせせらぎの音、そして夜になれば、星々と月、あるいは夜の漆黒と同じように佇んでいる。そこに心静かに佇めば、あなたもその一部となり、「虹の泉」のもつ文字通り自然体の力に満たされる。「虹の泉」には水は流れていないが、東氏は「人の魂を潤すことのできる、渇く事のない泉を作りたい」という言葉を遺している。彼は毎日幸せに満ちて、熱に冒された作業員のようにこの場所で働いた。朝6時前に起きて、8時に制作開始、5時に終了。土日祝日を含め規則正しい日々だった。妻の良子さんは、家事育児、車の運転だけでなく、制作での協働や「虹の泉」をめぐる対外的な交渉を行い、全面的に支えてきた。
 東氏は少年時代、絵を描いて過ごした。中学三年の時に、ふと開いた美術の教科書の陶芸作品の美しさに魅せられ、瀬戸窯業高校へ進む。卒業後は瀬戸の陶器工場で働くかたわら、陶芸の技術を身につけ、19歳で陶芸全国展に、23歳で日展に入選を果したが、展覧会で評価される作品を創っていくことも、生活陶器作りを生業とすることも良しとしなかった。22歳の時に、瀬戸に窯業の勉強に来ていたスリランカ人の青年と会い、その日のうちにスリランカに行くことで意気投合した。その後も、陶芸空間制作のための直接経験を求め、エジプト、フィリピン、ヨーロッパ、アルゼンチンへと渡ったが、旅のきっかけも資金調達も、偶然の出会いが大きな意味をもった。スリランカへの旅では、大海原を渡った。ジャングルの中の古代遺跡へと導かれ、近隣の村人の家に一人横たわっていた夜の闇のなかで「艶やかな釉の美しさをもつ光の子どもたちと海原」という陶芸空間が浮かび上がった。野焼き陶器をつくる村に青年海外協力隊指導員として滞在したフィリピンでは、キリスト教に出会い、聖書と刻々と変化してゆく雲の芸術を吸収して過ごした。日本では、7人の土木作業員仲間とともに働き、夢の実現のための基礎工事や足場組などの技術を身につけながら、陶芸空間のための試作品を創った。「虹の泉」の場所を求めアルゼンチンに渡り8年を過ごしたのち、故郷にその場所を見出し、1978年から亡くなるまで制作に没頭した。
 正門を通ると、最奥部に大陶壁が両側に翼壁を配して聳そびえている。雲と虹と一群の人物からなる大陶壁は制作の出発点を標し、その前に男女と2人の子供達からなる「中心像」が「泉」に面して立っている。正門から右手には、壁が形作られ、支援者による陶板作品が埋め込まれている。正門から左手には、小高い峯がぐるりと伸びて空間を取り囲む。峯の上には、絡まり合う海藻のような柱が密集し、モクモクと湧き上がる雲へと続いている。その峯に連なって、樹木と人が一体となった53の樹人像が様々な表情を浮かべて林立し、翼壁にまで伸びている。正門から入ると眼前に、緩やかにうねるミューズの丘が現れ、5人の人物像が楽器を奏でている。中央の広い低地には雲が広がっている。
 世界観を支える起伏のある基盤、繊細な構造と表情をもつ陶の像やレリーフからなる「虹の泉」は、東氏の夢と技術を通して奇跡的にこの世に顕れた形といえよう。(青木惠理子/龍谷大学名誉教授)

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